「神道の歴史」の版間の差分

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律令国家による公的祭祀制度は、律令の中の[[神祇令]]を基軸に展開された。神祇令は、[[飛鳥浄御原令]]制定の段階で規定されたものであると考えられており、[[唐]]の祀令が参考にされた<ref name="岡田莊司『日本神道史』吉川弘文館, 2010">岡田莊司『日本神道史』吉川弘文館, 2010</ref>。祭祀の管理や運営の規定などに関しては祀令のものが踏襲されたが、祭祀の内容についてはほぼ日本独自のものとなっており、神祇令は日本独自の神祇信仰を祀令に基づいて再整理したものであると理解することが穏当である<ref name="岡田莊司『日本神道史』吉川弘文館, 2010">岡田莊司『日本神道史』吉川弘文館, 2010</ref>。
 
神祇令に基づいて設置された祭祀行政の実務機関が[[神祇官]]であり、[[神祇伯]]という長官職も設置された。この神祇官の関与の下、[[祈年祭]]、[[鎮花祭]]、[[神衣祭]]、[[三枝祭]]、[[大忌祭]]、[[龍田祭]]、[[鎮火祭]]、[[道饗祭]]、[[月次祭]]、[[神嘗祭]]、[[相嘗祭]]、[[鎮魂祭]]、[[大嘗祭]]([[新嘗祭]])の13種類の祭祀が国家祭祀として季節に応じて催行される規定となった<ref name="岡田莊司『日本神道史』吉川弘文館, 2010">岡田莊司『日本神道史』吉川弘文館, 2010</ref>。旧暦2月に豊作を予祝する祈年祭を行い、旧暦3月に散る花に寄せて悪霊退散を祈願する鎮花祭を行い、旧暦の4月と7月に台風の風害が無いよう祈る龍田祭と水害がないように祈る大忌祭を行い、旧暦11月に新穀を感謝する新嘗祭を行うといったように、稲作と密接に結びつき、季節の巡行に合わせて、農耕に必要な自然の恵みに感謝することが律令祭祀の特質となっている<ref name="阪本是丸・石井研士編『プレステップ神道学』弘文堂, 2011">阪本是丸・石井研士編『プレステップ神道学』弘文堂, 2011</ref>。祭祀が行われる前後には、官人に対して斎戒を行うことが規定され、律令祭祀においては斎戒は致斎(まいみ)、散斎(あらいみ)の二種類が定められた<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「斎戒」『神道事典』弘文堂, |1999">國學院大學日本文化研究所編「|pp=215-216|loc=斎戒」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>(櫻井治男)}}。致斎は、一切の職務を放棄して潔斎に入り祭祀の準備のみに専念することで、散斎は職務は行いつつ「六色の禁法」のみを行わないものである<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「斎戒」『神道事典』弘文堂, |1999">國學院大學日本文化研究所編「|pp=215-216|loc=斎戒」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>(櫻井治男)}}。「六色の禁法」とは、喪を弔うこと、病を問うこと、宍(四足歩行の哺乳類のこと)を食べること、死刑の執行と罪人の結罰を行うこと、音楽をなすこと、穢汚に触れることの六つの禁止事項で、これを破ると罰せられることとなっていた<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「斎戒」『神道事典』弘文堂, |1999">國學院大學日本文化研究所編「|pp=215-216|loc=斎戒」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>(櫻井治男)}}。この致斎と散斎を行う期間の長さに応じて、律令祭祀は大祀、中祀、小祀に分類され、例えば大祀(践祚大嘗祭のみが該当)は散斎が1ヶ月、致斎が3日となっている<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「斎戒」『神道事典』弘文堂, |1999">國學院大學日本文化研究所編「|pp=215-216|loc=斎戒」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>(櫻井治男)}}
 
律令国家祭祀のうち、祈年祭・月次祭・大嘗祭では、[[幣帛|班幣]]という他国には見られない日本独自の祭祀形態がとられた<ref name="岡田莊司『日本神道史』吉川弘文館, 2010">岡田莊司『日本神道史』吉川弘文館, 2010</ref>。これは、神祇官が[[官社]]と認定した全国の神社の神職を神祇官に参集させて、そこで[[中臣氏]]が祝詞を奏上して[[斎部氏]](忌部氏)が幣帛を神職に配り、これをそれぞれの神社の神に捧げさせるというものである<ref name="岡田莊司『日本神道史』吉川弘文館, 2010">岡田莊司『日本神道史』吉川弘文館, 2010</ref>。[[大祓]]の祭式も整備され、まず天皇に中臣氏が御祓麻を、[[東漢氏]]と[[西文氏]]が祓刀を奉って大祓詞を奏上し、次に、百官の男女が朱雀門の祓所に集まり、中臣氏が祓詞を読んで[[卜部]]氏が解除(はらえ)を行った<ref name="神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013">神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013</ref>。
{{main|神仏習合}}
 
[[6世紀]]に仏教が公伝すると、[[物部氏]]と[[蘇我氏]]の仏教受容をめぐる抗争を経て、日本にも仏教が広がるようになった。しかし、当初は仏が「蕃神(あだしくにのかみ)」と呼称されたり、[[司馬達等]]の娘嶋など女性が出家者となって[[巫女]]のように仏像の管理を行うなど、仏教は在地の神祇信仰的に取り入れられ、質的に違いがあるとは認識されなかった<ref name="{{Sfn|伊藤聡『神道とは何か』中公新書, |2012">伊藤聡『神道とは何か』中公新書, 2012</ref>|pp=24-33}}。その後、[[7世紀]]に入ると日本の神々もまた、[[天部]]にあって人と同じく解脱を目指している存在として捉える「神身離脱説」が生じ、神前読経などを行うための施設として神社内に[[神宮寺]]が建立されるようになった<ref name="義江彰夫『神仏習合』岩波新書, 1996">義江彰夫『神仏習合』岩波新書, 1996</ref>。[[満願]]によって建立された[[多度神社]]の多度神宮寺などがその初期の例である<ref name="義江彰夫『神仏習合』岩波新書, 1996">義江彰夫『神仏習合』岩波新書, 1996</ref>。また、寺院の側からも神道に接近する動きが見られ、神々を仏法を鎮護する存在とみなす[[護法善神]]説が生じ、寺院内にも[[鎮守社]]が設けられるようになった<ref name="義江彰夫『神仏習合』岩波新書, 1996">義江彰夫『神仏習合』岩波新書, 1996</ref>。
 
平安時代に入ると、[[御霊信仰]]や、[[熊野神社|熊野]]を浄土とみなす[[熊野信仰]]など、神仏習合に基づく様々な信仰形態が生じ、[[仏像]]の影響のもと[[神像]]も作成されるようになる<ref name="義江彰夫『神仏習合』岩波新書, 1996">義江彰夫『神仏習合』岩波新書, 1996</ref>。時代が進むと、神仏習合思想はさらに展開し、神は仏が衆生を救済するために仮に現れた姿であるとみなす「[[本地垂迹説]]」が生じ、菩薩や権現といった仏教的神号の使用や、神体である鏡の裏に本地である仏の像を刻む御正体の作成などが行われるようになる<ref name="{{Sfn|伊藤聡『神道とは何か』中公新書, |2012">伊藤聡『神道とは何か』中公新書, 2012</ref>|pp=55-59}}
 
他方、朝廷や神宮においては神仏隔離の思想も見られるようになる。『貞観儀式』『儀式』などの規定によって、大嘗祭の期間は中央及び五畿の官吏が仏事を行うことが禁じられ、中祀および内裏の斎戒を伴う小祀には、僧尼の代理への参内を禁じ、内裏の仏事が禁じられた<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編『神道事典』「神道と仏教」弘文堂, |1999">國學院大學日本文化研究所編『神道事典』「|pp=24-26|loc=神道と仏教」弘文堂, 1999</ref>(佐藤眞人)}}。平安時代中期以降には、新嘗祭、月次祭、神嘗祭などの天皇自らが斎戒を行う祭においては、斎戒の期間中内裏の仏事をやめ、官人も仏法を忌避することとなった<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編『神道事典』神道と仏教」弘文堂, |1999">國學院大學日本文化研究所編『神道事典』「|pp=24-26|loc=神道と仏教」弘文堂, 1999</ref>(佐藤眞人)}}。伊勢神宮でも、境内では「仏」を「中子」、「僧侶」を「髪長」に言い換えるなどの忌詞の制が敷かれ、斎宮でもこれに準じて忌詞が用いられた<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編『神道事典』「神道と仏教」弘文堂, |1999">國學院大學日本文化研究所編『神道事典』「|pp=24-26|loc=神道と仏教」弘文堂, 1999</ref>(佐藤眞人)}}。このように、神仏習合は信仰ベースで進みつつも、祭祀儀礼は神道と仏教が別体系で存在したのである。
 
=== 修験道・陰陽道の成立 ===
奈良時代頃には、古来日本では山中他界とされ、足を踏み入れることのなかった山中が、密教、陰陽道、神祇信仰など様々な要素の影響を受けて、修行場となりはじめた<ref name="神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013">神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013</ref>。その草創期の人物として[[役小角]]などが上げられるが、平安時代末期に入るとそういった山岳修行が組織化されていき、[[金峯山]]、[[熊野三山]]、[[出羽三山]]、[[戸隠山]]などが代表的な霊山とされ、[[修験道]]が形成されていった<ref name="神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013">神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013</ref>。さらに後には、天台宗系の[[本山派]]と、真言宗系の[[当山派]]、出羽三山を拠点とする[[羽黒派]]、[[英彦山]]に拠点を置く[[英彦山派]]などの修験道各派が成立していく<ref name="神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013">神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013</ref>。
[[File:Abe Seimei.jpg|thumb|150px|安倍晴明]]
平安時代には、朝廷において[[陰陽道]]も成立した。陰陽道は、中国から輸入された[[陰陽五行説]]をもとに、日本で独自に発展したものである<ref name="神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013">神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013</ref>。陰陽道の成立は神道にも影響を与え、神祇官が行なっていた大祓や道饗祭などの祭祀が陰陽寮の儀礼として行われるようになり、中臣氏が奏上していた大祓(中臣祓)も「中臣祭文」に改まり、陰陽師に用いられるようになった<ref name="神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013">神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013</ref>。この違いは、中臣祓は宣読体であったものが、祭文では奏上体になっていることである<ref name="神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013">神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013</ref>。ただし、神道祭祀が国家的なものであるのに対して、陰陽道は貴族たちの疫病退散や立身出世など、現世利益の要求が高まる中で行われていったものである<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「神道と陰陽道」『神道事典』弘文堂, |1999">國學院大學日本文化研究所編「|pp=27-29|loc=神道と陰陽道」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>(林淳)}}。10世紀からは、[[安倍氏]]や[[賀茂氏]]が中心になって陰陽寮が世襲されるようになった<ref name="神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013">神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013</ref>。
 
== 中世 ==
=== 幕府の神祇制度 ===
 
[[鎌倉幕府]]が開かれると、幕政の下神社制度も再編された。幕府を開いた[[源頼朝]]は神道の崇敬が厚く、[[伊勢神宮]]の神領を安堵した他、[[伊豆山神社]]、[[箱根神社]]、[[三島神社]]の崇敬も厚く、特に伊豆箱根二所権現には歴代将軍が毎年1月に参詣するのが恒例となり、現在の[[初詣]]に繋がったとする指摘もある<ref name="神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013">神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013</ref>。また、[[1194年]]には[[寺社奉行]]を設置した。源頼朝の崇敬心を引き継いだ鎌倉幕府は、[[貞永]]元年制定の「[[御成敗式目]]」において第1条に「神社を修理し、祭祀を専らにすべき事」「神は人の敬いによって威を増し、人は神の徳によって運を添う」と神道についての定めを規定した<ref name="神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013">神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013</ref>。また、幕府が出した「関東新制」には神社の神事興行、[[神人]]乱行の停止など各種の規制が見える<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「|1999|p=110|loc=中世・近世の機関の概要」『神道事典』弘文堂, 1999">國學院大學日本文化研究所編「中世制度近世の機関の概要」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>(岡田莊司)}}。社務ではなく行事をはからう官職として祈祷奉行や神事奉行も設置され、室町時代には千秋氏が祈祷奉行を世襲した<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「|1999|p=110|loc=中世・近世の機関の概要」『神道事典』弘文堂, 1999">國學院大學日本文化研究所編「中世制度近世の機関の概要」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>(岡田莊司)}}
 
朝廷においては、神社の訴訟などを天皇に奏する[[寺社伝奏]]が置かれて問題の処理を担当したが、幕府勢力の台頭後は幕府と連絡を取り合い裁可を仰ぐことがその務めとなった<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「|1999|p=110|loc=中世・近世の機関の概要」『神道事典』弘文堂, 1999">國學院大學日本文化研究所編「中世制度近世の機関の概要」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>(岡田莊司)}}。また、上皇による熊野大社への行幸も院政期に盛んに行われるようになった。幕府成立による朝廷の権威の衰微に伴い、かえって朝廷では神祇祭祀が強く意識されるようになり、[[順徳院]]は『[[禁秘抄]]』で「神事を先にし他事を後にす」と述べている<ref name="神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013">神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013</ref>。
 
=== 中世の庶民信仰 ===
 
=== 神道の理論化と本地垂迹説 ===
知識階層においては、神道を教義化・内面化する動きが広がった。その嚆矢は、平安時代中期ごろより[[密教]]僧が密教的語彙により形成した[[両部神道]]説であり、その最初期の例である<!-- 伊藤聡 2012では『真言付法纂要抄』を両部神道説の例としていないのでは? -->[[真言宗]]の僧・成尊が11世紀に著した著した『真言付法纂要抄』では[[天照大御神]]と[[大日如来]]が一体であり、日本こそが密教流布に相応しい地であると主張され、中世神道説における主要な概念がここから導き出されることとなった<ref name="{{Sfn|伊藤聡『神道とは何か』中公新書, |2012">伊藤聡『神道とは何か』中公新書, 2012</ref>|pp=85-87}}
<br/>その後、[[文治]]二年([[1186年]])の[[重源]]による伊勢神宮参籠をはじめとして僧侶による伊勢神宮参拝が相次いで行われるようになり、伊勢神宮御厨のあった仙宮院を中心に両部神道書が大量に著述されるようになった。その最初期のものと思われるのが、『三角柏伝記』『[[中臣祓訓解]]』である。これらの書物において、伊勢神宮の内宮と外宮が密教における胎蔵界と金剛界に配され、両宮が地上に出現した[[曼荼羅]]と見立てられ<ref name="{{Sfn|伊藤聡『神道とは何か』中公新書, |2012">伊藤聡『神道とは何か』中公新書, 2012</ref>|pp=92-95}}、天照大御神は[[梵天|光明大梵天王]]であり[[日天子]]、[[トヨウケビメ|豊受大神]]は[[梵天|尸棄大梵天王]]であり[[月天子]]とされた。その後、『[[麗気記]]』が編纂され、真言密教に基づく秘説を集成し、両部神道の代表書となった<ref name="{{Sfn|伊藤聡『神道とは何か』中公新書, |2012">伊藤聡『神道とは何か』中公新書, 2012</ref>|pp=95-96}}
 
さらに、寺院において神道書や関連する切紙などが成立するようになると、これを相伝する両部神道系の神道流派が形成されるようになり、[[守覚法親王]]を始祖とする三宝院御流や、三輪山周辺の平等寺において展開した三輪流などが成立する<ref name="{{Sfn|伊藤聡『神道とは何か』中公新書, |2012">伊藤聡『神道とは何か』中公新書, 2012</ref>|pp=102-105}}。このような両部神道系の諸流派においては、その秘事の伝授にあたり、密教に倣った灌頂・伝授が行われ、これを神道灌頂と言った<ref name="{{Sfn|伊藤聡『神道とは何か』中公新書, |2012">伊藤聡『神道とは何か』中公新書, 2012</ref>|p=107}}
[[ファイル:Sanno Miya Mandala.jpg|thumb|right|150px|絹本著色日吉山王宮曼荼羅図(室町時代)<br>上部に二十一社の祭神・本地仏・[[種子 (密教)|種子]]を配置。下部は山王二十一社の俯瞰図で八王子山頂の二社と山麓の社殿群を描く。]]
真言密教のみならず、[[天台宗]]の立場からも神仏習合思想に基づく神道説が生じた。その基本は、[[比叡山]]の守護神である[[日吉大社]]の意義を天台教学に基づいて説明するものであり、これを[[山王神道]]と呼称する<ref name="末木文美士『中世の神と仏』山川出版社, 2003">末木文美士『中世の神と仏』山川出版社, 2003</ref>。
<br/>13世紀には、『耀天記』が著され、日吉大社の大宮(西本宮)は末法小国である日本の衆生を救うために釈迦が大明神として垂迹したものであるとされた<ref name="末木文美士『中世の神と仏』山川出版社, 2003">末木文美士『中世の神と仏』山川出版社, 2003</ref>。さらに14世紀には義源が『山家要略記』を著して、本宮のみならず山王七社全てが仏の垂迹であると主張した。その後、義源の弟子の光宗が『渓嵐拾葉集』を著して天台教学を全て山王に結びつけて教義を体系化した上で、山王明神は人々の心に備わっているものであるとした<ref name="末木文美士『中世の神と仏』山川出版社, 2003">末木文美士『中世の神と仏』山川出版社, 2003</ref>。また、衆生は修行をせずともすでに悟りを開いているという[[本覚|天台本覚思想]]の流行に相まって、衆生に近い日本の神こそが本地であり、仏が神の垂迹であるという反本地垂迹説説もこの書物の中で主張されている<ref name="末木文美士『中世の神と仏』山川出版社, 2003">末木文美士『中世の神と仏』山川出版社, 2003</ref>。なお、天台宗における神道論は、主に記家と呼ばれた僧の集団によって担われたものである。
 
鎌倉時代後期には、[[東大寺]]あるいは[[南都]]において、[[三社託宣]]という掛物も成立した。これは、[[天照大御神|天照皇大神]]・[[八幡神|八幡大菩薩]]・[[春日神|春日大明神]]の三社の託宣として、正直・清浄・慈悲の教条を漢文体で書き記したものである<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「三社託宣」『神道事典』弘文堂, |1999">國學院大學日本文化研究所編「|pp=399-400|loc=三社託宣」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>(森瑞枝)}}。この三社がとりわけ信仰対象となったのは、天皇の祖神である天照大御神、武家([[清和源氏]])の氏神である八幡神、公家([[藤原氏]])の氏神である春日神の三神が、神代において幽契を結んでおり、現世において天皇・武家・公家が協調して政治を行うことが神代より定められていたという信仰によるものである<ref name="神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013">神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013</ref>。
 
中世の神仏習合思想の浸透の中で、各神社では縁起が多く作成されるようになり、多くの神社縁起や縁起絵巻が作成された。『春日権現現記』や『北野天神縁起』『八幡愚童訓』などが著名で、14世紀に成立した『神道集』にはそういった説話類が集められている。中世に入って朝廷が衰微し、武家から確かな庇護を受けるためにこのような縁起類が作成されたと考えられる<ref name="神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013">神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013</ref>。また、神仏習合に基づいて神話を再解釈する[[中世神話]]も広がった。
 
なお、本地垂迹説の傾向は鎌倉時代に勃興する[[鎌倉新仏教]]にも取り入れられ、[[浄土真宗]]においては存覚が『諸神本懐集』を著し、日本の神社を、仏を本地に持つ「権社」と、そうではない「実社」に分け、「権社」のみを崇敬するべきだと主張した<ref name="{{Sfn|伊藤聡『神道とは何か』中公新書, |2012">伊藤聡『神道とは何か』中公新書, 2012</ref>|p=113}}。日蓮宗では、[[日蓮]]自身も積極的に神道を取り込み、日蓮の弟子[[日像]]により[[法華神道]]という形で体系化された<ref name="伊藤聡『神道とは何か』中公新書, 2012">伊藤聡『神道とは何か』中公新書, 2012</ref>。その思想は、日蓮が提唱した法華経に基づく正法が正しく行われている場合には、熱田明神を筆頭とする三十番神という日本の神々が、1日交代で日本を護持するというものである<ref name="伊藤聡『神道とは何か』中公新書, 2012">伊藤聡『神道とは何か』中公新書, 2012</ref>。その他、[[時宗]]や[[曹洞宗]]では積極的に神道が取り入れられ、[[臨済宗]]では消極的に本地垂迹説が容認された<ref name="伊藤聡『神道とは何か』中公新書, 2012">伊藤聡『神道とは何か』中公新書, 2012</ref>。
 
=== 神国意識と神本仏迹説 ===
他方、神社側でも仏教などの外来宗教の影響も受けつつ、神道を教義化・内面化していく動きが活発になり、本地垂迹説に対して神を優位とする神本仏迹説も生じるようになる。律令制の崩壊に伴い、存在基盤が動揺し始めた神道勢力の中に強い危機感が生じ、彼らが神道祭祀について神秘的な権威づけを図って記述を行いはじめたことや、仏教勢力が積極的に神祇の世界に近づき仏教の論理によって神道の再解釈を試みたことに対して、神道側から仏教に対抗して神道の立場を主張しようとしたことが、その背景にある<ref name="大隅和雄『日本思想大系19 中世神道論』, 1977">大隅和雄『日本思想大系19 中世神道論』岩波書店, 1977</ref>。また、[[元寇]]勝利後の[[神国思想]]の高まりや、全国への神宮[[御厨]]の増加による伊勢神宮の権威の高まりも、体系的神道論形成の背景となった<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「伊勢神道」『神道事典』弘文堂, |1999">國學院大學日本文化研究所編「|pp=429-430|loc=伊勢神道」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>(中西正幸)}}
[[画像:倭姫命世記.jpg|thumb|200px|left|伊勢神道の経典の一つ『倭姫命世記』(1769年/明和8年に神宮禰宜・度会五月麿により書写されたもの)]]
その嚆矢は、鎌倉時代中期に成立した[[伊勢神道]]である。伊勢神道は、伊勢神宮の外宮祠官である[[度会氏]]が中心となって形成した神道説であり、「[[神道五部書]]」を基本教典とする。五部書の中でも『倭姫命世記』『造伊勢二所太神宮宝基本記』が比較的早く成立した書物であり、両部神道における内外宮の金胎両部説を援用しながら、内宮と外宮を同格とし、ひいては外宮を優越させることを図った<ref name="伊藤聡『神道とは何か』中公新書, 2012">伊藤聡『神道とは何か』中公新書, 2012</ref>。これらの書物の中で外宮の祭神である[[トヨウケビメ|豊受大神]]を、天照大御神に先行する根元神として[[天御中主神]]に比定、さらに内宮を火徳、外宮を水徳としたが、これにより[[五行説]]における「水克火」に基づいて外宮を優先させようとした。また、[[邇邇芸命]]の母である[[萬幡豊秋津師比売命]]を豊受大神の孫神と位置づけ、豊受大神を皇孫の系譜に組み込んだ<ref name="伊藤聡『神道とは何か』中公新書, 2012">伊藤聡『神道とは何か』中公新書, 2012</ref>。また祭神論の他、皇統の無窮と三種の神器の尊厳、神宮の尊貴性を説いて神国思想を強調し、神道における二大徳目として正直と清浄を掲げ、これを中心とした倫理観と道徳感を展開し、祭祀の厳修と斎戒、解除(はらえ)を重視した<ref name="神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013">神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社, 2013</ref>。
 
度会行忠の跡を継いで伊勢神道を確立したのは[[度会家行]]であり、彼は『類聚神祇本源』を著して[[宋学]]、[[老荘]]、[[仏教]]など多様な書物を引用しつつ伊勢神道を体系化するとともに、「機前論」という独自の神道教義を説いた。それは、世界が生成される以前の混沌状態を「機前」とし、かつそれが我が心の本源であり、そこに神の本質があるとした上で、その実践として清浄を維持することを説いたものである<ref name="伊藤聡『神道とは何か』中公新書, 2012">伊藤聡『神道とは何か』中公新書, 2012</ref>。
<br/>さらに後には[[度会常昌]]が出て、度会氏は外宮鎮座以前は内宮に奉仕してきたと主張して内宮と外宮の同列化の根拠とし、さらに外宮を水神と見る立場から内宮と外宮の関係を月日に比定し、日月が並んで宇内を照らすように、伊勢両宮が双座すると主張した<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「伊勢神道」『神道事典』弘文堂, |1999">國學院大學日本文化研究所編「|pp=429-430|loc=伊勢神道」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>(中西正幸)}}
[[File:Kitabatake Chikafusa.svg|thumb|200px|light|北畠親房]]
[[南北朝時代]]に入ると、伊勢神道の影響を受けた[[北畠親房]]が『[[神皇正統記]]』や『元元集』を著し、日本の皇統が神代と連続し、一度も交代しなかったことから神国としての日本の優位論を説くとともに、天皇には血統のみならず儒教的な徳目を要求し、「諸教を捨てず」と説いた<ref name="末木文美士『中世の神と仏』山川出版社, 2003">末木文美士『中世の神と仏』山川出版社, 2003</ref>。同時代、天台僧の[[慈遍]]も伊勢神道から影響を受けて『旧事本紀玄義』を著し、天皇の君主像を提示し、神道における政治論を確立した<ref name="末木文美士『中世の神と仏』山川出版社, 2003">末木文美士『中世の神と仏』山川出版社, 2003</ref>。また、公家の[[一条兼良]]も『日本書紀纂疏』を著して日本書紀神代巻を哲学的に解釈して神道思想を形成した。[[忌部正通]]は『[[神代巻口訣]]』を著して日本書紀神代巻の注釈を通じて神道神学を叙述した。
 
この他に、近世の民衆教育で最も大きな学派となった[[石門心学]]の創始者である[[石田梅岩]]も青年期に神道講釈師の影響を受けており、中世神道の徳目である「正直」という概念を重視し、神儒仏の教えを調和して民衆や商人向けの思想を説いた<ref name="柴田実『日本思想大系42 石門心学』岩波書店,1971">柴田実『日本思想大系42 石門心学』岩波書店,1971</ref>。
<br/>また、江戸時代後期の[[二宮尊徳]]も、至誠・勤労・分度・推譲を旨とする[[報徳思想]]を、天照大神が豊葦原を開いて瑞穂の国とした以来の「開闢元始の大道」「神道の大道」として民衆に説き広げた。自らの学問を「神儒仏正味一粒丸」として、神道一さじ・儒仏半さじずつと例え、神道を中心に神儒仏三教を調和した<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「二宮尊徳」『神道事典』弘文堂, |1999">國學院大學日本文化研究所編「|p=524|loc=二宮尊徳」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>(藤森馨)}}
 
=== 儒家神道の成立 ===
その思想は、まず[[神世七代]]と朱子学における[[宋明理学|理気二元論]]を結びつけ、国常立尊が[[太極]]であり、それ以下で生じた五柱の神は[[五行]]の神であり、最後に生まれた[[イザナギ]]・[[イザナミ]]は五行を兼ねて国土や神々や人々を生んだとし、人々には人々を創った神の霊が内在していて、神と人は「天人唯一之道」という合一状態にあるとした<ref name="平重道・阿部秋生『日本思想大系39 近世神道論・前期国学』岩波書店,1972">平重道・阿部秋生『日本思想大系39 近世神道論・前期国学』岩波書店,1972</ref>。そして、神道とは人が神に従って生きることであり、人は神に祈祷を行うことで冥加を得なければならないが、それには人が「正直」でなければならず、その「正直」の実現には「敬(つつしみ)」が第一だとした<ref name="平重道・阿部秋生『日本思想大系39 近世神道論・前期国学』岩波書店,1972">平重道・阿部秋生『日本思想大系39 近世神道論・前期国学』岩波書店,1972</ref>。また、吉川神道と同じく君臣関係を非常に重視し、君臣が対抗関係・権力関係ではなく本来的に一体であり、君臣相守により国を守ってきたことが神道の君臣関係であるとし<ref name="平重道・阿部秋生『日本思想大系39 近世神道論・前期国学』岩波書店,1972">平重道・阿部秋生『日本思想大系39 近世神道論・前期国学』岩波書店,1972</ref>、のちの尊皇思想にも大きな影響を与えた。
 
山崎闇斎没後、その門弟であった[[正親町公通]]が継承者となり、垂加神道は全盛期を迎え、江戸と京都を中心として全国的に展開し、公家・武家・神職に広く浸透し、神道界に最も大きな影響を与えるようになった<ref name="平重道・阿部秋生『日本思想大系39 近世神道論・前期国学』岩波書店,1972">平重道・阿部秋生『日本思想大系39 近世神道論・前期国学』岩波書店,1972</ref>。正親町公通の没後は、その弟子であった[[玉木正英]]が後を継ぎ、正親町公通の著した『持授抄』を最高奥秘とする一重・二重・三重・四重の秘伝を組織立て、垂加神道の組織化に取り組むとともに、正英は[[橘家神道]]という神道説も形成した<ref name="平重道・阿部秋生『日本思想大系39 近世神道論・前期国学』岩波書店,1972">平重道・阿部秋生『日本思想大系39 近世神道論・前期国学』岩波書店,1972</ref>。このような秘伝化の動きに対しては、[[若林強斎]]などからは「闇斎の真意が見えなくなる」とする批判も出た<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「垂加神道」『神道事典』弘文堂, |1999">國學院大學日本文化研究所編「|pp=437-439|loc=垂加神道」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>(西岡和彦)}}
<br>また、この垂加神道の影響を受けて家伝の神道説を垂加神道流に教義化・体系化する動きも広がり、上述の橘家神道の他、[[伯家神道]]、[[土御門神道]]などが垂加神道の影響を受けて組織化された。
 
江戸時代中期に入ると、儒家神道に代わり[[国学]]が隆盛するようになる。国学の源流は、江戸時代初頭に中世的な歌学規範を否定して歌を詠んだ[[木下長嘯子]]、[[木瀬三之]]、[[戸田茂睡]]、[[下河辺長流]]、[[北村季吟]]などの歌人があげられるが、そういった歌学を近世的な研究手法により具体的にまとめたのが僧[[契沖]]であり、契沖の『[[万葉代匠記]]』起稿を国学の成立とすることが一般的な見方となっている<ref name="平重道・阿部秋生『日本思想大系39 近世神道論・前期国学』岩波書店,1972">平重道・阿部秋生『日本思想大系39 近世神道論・前期国学』岩波書店,1972</ref>。契沖は、寺を点々としながら国典の研究に励み、『万葉代匠記』や『倭字正濫抄』などを著して歌学の実証的研究や[[仮名遣い#契沖仮名遣い|仮名遣いの研究]]などの功績を残し、古典を儒仏の教義風の解釈によせて読解するのではなく、実証的に研究していくという手法を確立した<ref name="平重道・阿部秋生『日本思想大系39 近世神道論・前期国学』岩波書店,1972">平重道・阿部秋生『日本思想大系39 近世神道論・前期国学』岩波書店,1972</ref>。
 
契沖の跡を継いだのが、[[荷田春満]]である。荷田春満は伏見稲荷大社に祠官する[[東羽倉家]]に生まれ、その後江戸に下って講義を行なった。春満が直接契沖に弟子入りしたという事実はないが、春満の蔵書には『万葉代匠記』をはじめ契沖の書物が多数あり、自著の『万葉集僻案抄』などの万葉集注釈も大部分を契沖の読みに倣っている<ref name="平重道・阿部秋生『日本思想大系39 近世神道論・前期国学』岩波書店,1972">平重道・阿部秋生『日本思想大系39 近世神道論・前期国学』岩波書店,1972</ref>など、契沖に大きな影響を受けている。春満は、『創学校啓』に見られるように歴史・有職故実・神学などを和学の名のもとに学派として組織化する意図があり、春満において、神道と(契沖らによる)語学研究が「国学」として統合に向かった<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「国学」『神道事典』弘文堂, |1999">國學院大學日本文化研究所編「|pp=397-399|loc=国学」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>(森瑞枝)}}
 
[[賀茂真淵]]は、[[賀茂神社]]に祠官する[[賀茂氏]]の支流に生まれ、春満門下の[[杉浦国頭]]などに学んだ。後に京へ上り春満に直接弟子入りし、春満没後は国学者としての名声を高め、[[荷田在満]]の推挙により[[田安宗武]]に召し抱えられた。真淵もまた、[[万葉集]]の研究に取り組み、その一環として[[祝詞]]の研究も行い、『万葉考』『冠辞考』『祝詞考』などを著して注釈を行なった。そして、『[[国意考]]』では古語の研究から古意、[[道 (国学)|古道]]へと展開する図式的な方法論を提示した上で<ref name="平重道・阿部秋生『日本思想大系39 近世神道論・前期国学』岩波書店,1972">平重道・阿部秋生『日本思想大系39 近世神道論・前期国学』岩波書店,1972</ref>、反儒教的で上代の日本を尊ぶ思想性を国学に付与した<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「国学」『神道事典』弘文堂, |1999">國學院大學日本文化研究所編「|pp=397-399|loc=国学」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>(森瑞枝)}}。その思想は、儒教はしいて人倫を説いたことにより逆に世に争いをもたらしたのに対して、上代の日本には「神」と「皇(すべらぎ)」への「二つのかしこみ」に収斂する「直き心」があり、あえて人倫を説かなくても自ずから社会は和らいでいたとし、その上代の心を実現するためには、万葉風の歌を学び、自ら詠んで歌の修練をする必要があるとして、歌を詠むことこそが国学の本義であるとした<ref name="清水正之『日本思想全史』ちくま新書,2014">清水正之『日本思想全史』ちくま新書,2014</ref>。しかし、その古道の内容については、真淵は断片的に、儒教の倫理との対比において述べているだけであり<ref name="平重道・阿部秋生『日本思想大系39 近世神道論・前期国学』岩波書店,1972">平重道・阿部秋生『日本思想大系39 近世神道論・前期国学』岩波書店,1972</ref>、[[老荘思想]]と一致するとも説いていて、古典から直接思想体系を導き出して組織神学を発展させるまでには至らなかった<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「国学」『神道事典』弘文堂, |1999">國學院大學日本文化研究所編「|pp=397-399|loc=国学」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>(森瑞枝)}}
[[Image:契沖、賀茂真淵、本居宣長対座画像.jpg|左から、本居宣長、契沖、賀茂真淵。|thumb|300px]]
真淵の後を継いで国学を大成したのは、[[本居宣長]]であった。宣長は商家に生まれ、医学を修学する傍ら日本の古典や和歌に興味を持ち、医業を行いながら国学の研究に励んだ。34歳のときに生涯で唯一となる真淵との面会を果たして入門し、以後真淵が没するまで師事を続けた。宣長は、契沖以来の文献学・言語学を引き継ぐとともに、国学における神道神学の側面も大成した。宣長は、儒教の説く人倫は人々を支配するために[[聖人]]により作為された道であり、国の習俗が悪く治まりがたいのを、強ちに治めようとするために作為されたとした。また、「[[天]]」が常に聖人を支持して[[天子]]となすという儒教の[[天命]]思想は、国を奪って王となった者が自己を正当化するためのものだと批判した<ref name="村岡典嗣『直毘霊・玉鉾百首』岩波書店,1936">村岡典嗣『直毘霊・玉鉾百首』岩波書店,1936</ref>。一方で日本は、古代から儒教や仏教のような教えはなかったが、それは小賢しい教えがなくても、天照大御神の御孫が国をしろしめし、上から下まで乱れることなく天下が治まり皇統が伝わってきたからであるとし、日本には一々[[言挙げ]]をしない真の道があったと主張、その根拠として日本では一度も王朝の交代がなかったのに対して、儒教の教えがあるはずの中国では何度も君主が殺害され王朝が交代してきたことをあげた<ref name="村岡典嗣『直毘霊・玉鉾百首』岩波書店,1936">村岡典嗣『直毘霊・玉鉾百首』岩波書店,1936</ref>。そして、そういった儒教仏教流の「[[漢意]]」を用いて神典を解釈するのではなく実証的に研究しなければならないとし、神道を仏教の教義や儒教の教義によせて解釈する仏家神道や儒家神道を強く批判した<ref name="村岡典嗣『直毘霊・玉鉾百首』岩波書店,1936">村岡典嗣『直毘霊・玉鉾百首』岩波書店,1936</ref>。
神話の内容を事実とみなす宣長の神学に対しては、同じ国学者からも批判があり、[[富士谷御杖]]は、和歌や神話の言葉は、[[言霊]]の霊力を帯びた日常言語と異なる言葉であるため、あるものを指しているように見えて異なるものを指しているとし、事実ではなく教典として理解するべきだとして宣長の古事記論を批判した<ref name="清水正之『日本思想全史』ちくま新書,2014">清水正之『日本思想全史』ちくま新書,2014</ref>。その他、[[橘守部]]、[[村田春海]]などからも神学において批判を受けた。
 
宣長以後、国学は各人ごとに研究領域が専門化していった<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「国学」『神道事典』弘文堂, |1999">國學院大學日本文化研究所編「|pp=397-399|loc=国学」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>(森瑞枝)}}。宣長の言語学・文献学の側面を受け継いだのは、[[伴信友]]、[[本居大平]]、[[本居春庭]]らである。他方で、「宣長死後の門人」として宣長に弟子入りした[[平田篤胤]]は、主として古道論や神学の側面を重視していった。
 
=== 復古神道と後期水戸学 ===
このように、平田篤胤は宣長の実証主義的な研究からは離れ、宗教的な要素を多分に含んだ神道説を提示した。このため、[[本居大平]]や伴信友などの同時代の鈴屋門下の国学者からは批判を受けた。一方で、平田篤胤の神学は多くの門下に受け継がれ、[[大国隆正]]、[[矢野玄道]]、[[丸山作楽]]、[[権田直助]]、[[福羽美静]]らの平田派国学者らが王政復古や明治時代初頭の神祇政策の形成の担い手となった<ref name="森和也『神道・儒教・仏教』ちくま新書,2018">森和也『神道・儒教・仏教』ちくま新書,2018</ref>。
[[File:Aizawa.jpg|thumb|left|会沢正志斎]]
また、幕末期に入って勃興し始めたもう一つの勢力がある。[[水戸学|後期水戸学]]である。そもそも、水戸学とは[[水戸藩]]を中心に展開した思想のことであり、[[徳川光圀]]が[[大日本史]]の編纂を始めたことに端を発する学問である。おおよそ18世紀までに展開する前期水戸学は、[[安積澹泊]]、[[佐々宗淳]]、[[栗山潜鋒]]、[[三宅観瀾]]らを中心に、修史事業や朱子学的[[大義名分]]論に基づく歴史観を特色とする儒教の学問であった<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「水戸学」『神道事典』弘文堂, |1999">國學院大學日本文化研究所編「|pp=406-407|loc=水戸学」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>(矢崎浩之)}}。19世紀に入り列強からの圧迫や江戸幕府の衰退など様々な内憂外患が現れてくると、前期水戸学で蓄積された学問に国学を統合し、社会思想を述べて現実政治への積極的な提言を行うようになった<ref name="森和也『神道・儒教・仏教』ちくま新書,2018">森和也『神道・儒教・仏教』ちくま新書,2018</ref>。この学風を後期水戸学と称し、徂徠学の影響を受けた[[立原翠軒]]の弟子である[[藤田幽谷]]が嚆矢を放ち、その門人である[[藤田東湖]]、[[会沢正志斎]]らによってさらに発展した。東湖は、『弘道館記述義』で日本神話から語り始めて万世一系の天皇による日本の統治にたどり着き、中国の王朝交代に見られた「放伐」「禅譲」を否定し、儒教で聖代視されてきた[[夏 (王朝)|夏]][[殷]][[周]]の三代を批判した<ref name="森和也『神道・儒教・仏教』ちくま新書,2018">森和也『神道・儒教・仏教』ちくま新書,2018</ref>。この時点で、水戸学では儒教は絶対的な立場ではなくなっている<ref name="森和也『神道・儒教・仏教』ちくま新書,2018">森和也『神道・儒教・仏教』ちくま新書,2018</ref>。しかし、国学に対する批判も行い、東湖は「儒教倫理は人情に反する」との立場をとった宣長を批判して、忠孝仁義といった儒教の倫理は天地以来日本に固有に存在していたと主張し、儒教の倫理面については重んじる立場をとった<ref name="森和也『神道・儒教・仏教』ちくま新書,2018">森和也『神道・儒教・仏教』ちくま新書,2018</ref>。また、神仏習合を国体を破壊するものとして鋭く批判したが、仏教の国民教化手段としての有効性については高く評価した<ref name="森和也『神道・儒教・仏教』ちくま新書,2018">森和也『神道・儒教・仏教』ちくま新書,2018</ref>。
 
これに次ぎ、会沢正志斎は『新論』を書き上げ思想を表明した。正志斎は、侵略の手段としてのキリスト教に対抗し日本の独立を保つため、天照大神が歴代の天皇に天下を治めさせ、その下であらゆる階層の人々が君臣の分を守りながら、日本の統治に何らかの形に関わっているという国体論を示した<ref>{{Cite | title = 第1回 會澤正志斎『新論』 | url = http://www.webchikuma.jp/articles/-/311 | publisher = ちくまウェブ | accessdate = 2021-06-02}}</ref>。そして、人々の祖先は代々このように天皇の臣下として仕えてきたのであるから、自分が同じように天皇に尽くし「忠」を果たすことは、これまでの先祖の働きを継承することであり先祖に対する「孝」の実現でもあると説き、儒教倫理の「忠」と「孝」を統合した<ref>{{Cite | title = 第1回 會澤正志斎『新論』 | url = http://www.webchikuma.jp/articles/-/311 | publisher = ちくまウェブ | accessdate = 2021-06-02}}</ref>。そして、その天皇と国民の一体を確認するための祭儀が、大嘗祭であると説いた<ref>{{Cite | title = 第1回 會澤正志斎『新論』 | url = http://www.webchikuma.jp/articles/-/311 | publisher = ちくまウェブ | accessdate = 2021-06-02}}</ref>。さらに、正志斎は神道神話の解釈に儒教を取り入れた。『日本書紀』に見られる、天照大御神が瓊瓊杵尊に対して子々孫々まで天祖の子孫が国を治めよと勅した「天壌無窮の神勅」を、五倫の「君臣の忠」の始まりであると主張し、「八咫鏡を神体として祀れ」と勅した「宝鏡奉斎の神勅」を五倫の「親子の孝」の始まりであると主張した<ref name="蔣建偉『会沢正志斎における「天祖」の位置 』國學院大學研究開発推進機構、2021">蔣建偉『会沢正志斎における「天祖」の位置 』國學院大學研究開発推進機構、2021</ref>。これが、太古より日本において人倫が確立していた証であると考え、神道と儒教を結びつけたのである。
このように、神道思想の表明を放棄して神道精神の空白化を行なった国家神道体制に対して、在野の神職や神道思想家からは非難も上がり、中には独自の神道思想を打ち出したり、民間の神道教団を作ってこれに対峙していった者たちもいた。
 
そういった集団の中で特に大きな勢力を持ったのは、[[教派神道]]の13派である。この13派とは、一般的には[[黒住教]]、[[神道修成派]]、[[出雲大社教]]、[[扶桑教]]、[[実行教]]、[[神習教]]、[[神道大成教]]、[[御嶽教]]、[[神道大教]]、[[禊教]]、[[神理教]]、[[金光教]]、[[天理教]]を指す。もともとは[[神宮教]]も含まれたが、のちに神宮奉斎会へと改組して教派神道からは離脱している。これらの教団は、近世の神道思想や民衆信仰を基盤にして幕末期に胎動しはじめ、明治時代の宗教行政の中で発展していったものである<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「神道系教団」『神道事典』弘文堂, |1999">國學院大學日本文化研究所編「|pp=449-453|loc=神道系教団」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>(井上順孝)}}。明治8年([[1875年]])に教部省の教導職が廃止されて、上述の通り国家神道は神道非宗教論に基づいて宗教的側面を切り離すようになった。神職による教化活動も禁じられるようになると、これらの神道系教団は神道の教化の側面を担う勢力として急速に組織化され、神道事務局のもと教派神道として順次独立が公認されていき、最終的に13派が公認を受けたのである<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「神道系教団」『神道事典』弘文堂, |1999">國學院大學日本文化研究所編「|pp=449-453|loc=神道系教団」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>(井上順孝)}}
 
特に、天理教は明治中期から急速に勢力を伸ばし、教派神道の中で最も大きな信者数を獲得する教派となった<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「天理教」『神道事典』弘文堂, |1999">國學院大學日本文化研究所編「|p=482|loc=天理教」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>(弓山達也)}}。天理教は、教祖の[[中山みき]]が1838年に神懸かりを受けたことから端を発し、みきが神懸かりによって得た「天理王」という神の言葉を『おふでさき』と呼ばれる和歌形式の文章によって筆記し、その教理を形成した<ref name="清水正之『日本思想全史』ちくま新書,2014">清水正之『日本思想全史』ちくま新書,2014</ref>。その内容は、「陽気暮らし」を説き、夫婦の関係性を重視するものであり、家や祖霊信仰については重視をしない立場を取っている<ref name="清水正之『日本思想全史』ちくま新書,2014">清水正之『日本思想全史』ちくま新書,2014</ref>。そしてその創世神話においては、「月日親神」が泥海の中にいた人の顔を持つ魚である「いざなぎ」と巳である「いざなみ」に夫婦の営みを教え、その結果人間が生じ、さらにいざなぎといざなみを含む十の神にそれぞれ人間の守護を割り当てた、という古事記や日本書記とは大きく異なる独特な神話を形成した<ref name="清水正之『日本思想全史』ちくま新書,2014">清水正之『日本思想全史』ちくま新書,2014</ref>。
[[File:Nao Deguchi.jpg|thumb|200px|出口なお]]
また、[[大本]]の出現も重要である。大本は、明寛文治25年([[1892年]])に教祖[[出口なお]]が神懸かりをきっかけに[[艮]]の[[金神]]の言葉を語り始め、さらにお筆先によりその言葉の筆録を始めたことに端を発する<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「大本」『神道事典』弘文堂, |1999">國學院|p=456|loc=學日(津城寛化研究所編「大本」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>)}}。なおは明治31年([[1898年]])に聖師[[出口王仁三郎]]と出会い、2年後には王仁三郎がなおの婿養子に入り共同で活動を行うようになる<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「大本」『神道事典』弘文堂, |1999">國學院|p=456|loc=學日(津城寛化研究所編「大本」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>)}}。なおのお筆先と王仁三郎の霊術を組み合わせた大本の体制が整った。海軍機関学校の[[浅野和三郎]]が入信して以来、知識層や軍人の入信も相次ぎ、教勢が急拡大していったことで、社会問題ともなった<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「大本」『神道事典』弘文堂, |1999">國學院|p=456|loc=學日(津城寛化研究所編「大本」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>)}}。大本の教えは神人一致を説くもので、神はこの世一切を創造した存在であり、この世一切のものには神の普遍的な霊が宿っているとした上で、人間は神が創造したすべてのものの霊長であり、神の願う理想世界を実践していくために神から絶大なる知恵と力を授けられているとし、人は神の心を腹の底から理解し、神の力を受け、神と人とが一体となって人類の理想の世界を築いていくべきであるというものである<ref>{{Cite | title = 大本教旨・三大学則 | url = https://oomoto.or.jp/wp/oomotokyoushi/ | publisher = 大本公式日本語サイト | accessdate = 2020-11-12}}</ref>。大本は、後世の神道系教団に与えた影響も極めて大きく、「大本系」と呼ばれる一連の新宗教の運動を生み、[[生長の家]]の形成にも影響を与えた<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「大本」『神道事典』弘文堂, |1999">國學院|p=456|loc=學日(津城寛化研究所編「大本」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>)}}
 
教派神道の教えの全体的な特徴として、伝統的な神祇信仰を踏まえつつ、それぞれの教派で主神を置く場合が多く、まじないや神占いなどの伝統的な儀礼を用いて布教を行っていった<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「神道系教団」『神道事典』弘文堂, |1999">國學院大學日本文化研究所編「|pp=449-453|loc=神道系教団」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>(井上順孝)}}。教派神道は国家から公認された存在ではあったが、独自の教えを説き広げて多くの信者数を獲得していったことから、しばしば国家からの弾圧にもあった。天理教は、内務省の「秘密訓令」により攻撃を受け、儀礼などの変更が余儀なくされた<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「天理教」『神道事典』弘文堂, |1999">國學院大學日本文化研究所編「|p=482|loc=天理教」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>(弓山達也)}}。大本も、信者数の拡大に警戒感を抱いた政府当局により[[大本事件|第一次、第二次の二度にわたる弾圧]]を受け、本部施設の破壊、全組織の解体、全幹部の拘束などが行われた<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「大本」『神道事典』弘文堂, |1999">國學院|p=456|loc=學日(津城寛化研究所編「大本」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>)}}
 
また、教派神道やその他の神道系教団とは異なり、個人で思想活動を行なった神道思想家も多数いた。神道家の[[川面凡児]]は、内務省の神道政策を批判して、[[禊]]を中心とした神道精神の復古を力説し、万教帰一、万神即一神に基づく独自の神道思想を打ち出した<ref name="葦津珍彦『国家神道とは何だったのか』神社新報社, 1987">葦津珍彦『国家神道とは何だったのか』神社新報社, 1987</ref>。また、川面の影響を受けた[[今泉定助]]は、宣長以来の実証的な神道研究を行いつつ、川面に入門して宗教的な行法を体得し、独自の神道思想を表明した。その思想は、神と人間は本来一体であり、祓えを行うことによって心身を清め、統一主宰である直霊神を自己に発顕して神人合一の境地を実現することが、宇宙の真理であるというものである<ref>{{Cite | title = 天皇と大祓〜今泉定助翁の大嘗祭論〜 | url = https://youtube.com/watch?v=YPyJb5Mz5dc | publisher = 未来ネット | accessdate = 2020-11-12}}</ref>。今泉は政府の神社行政や軍部の戦争方針を批判し、政治家に対して戦争を止めるよう講演をするなどしたため<ref>{{Cite | title = 天皇と大祓〜今泉定助翁の大嘗祭論〜 | url = https://youtube.com/watch?v=YPyJb5Mz5dc | publisher = 未来ネット | accessdate = 2020-11-12}}</ref>、戦時中には著作や講演録が発禁処分となった<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「今泉定助」『神道事典』弘文堂, |1999">國學院大學日本文化研究所編「|p=499|loc=今泉定助」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>(山西逸朗)}}
 
=== 神道指令と戦後神道 ===
昭和21年1月には、宗教法人として存続することとなった全国の神社を包括するための神社団体として、大日本神祇会(全国神職会)、皇典講究所、[[神宮奉斎会]]の三団体が発展的に解消し、[[神社本庁]]が結成された<ref name="岡田莊司『日本神道史』吉川弘文館, 2010">岡田莊司『日本神道史』吉川弘文館, 2010</ref>。
[[File:Meijijingu-2.jpg|thumb|初詣の様子(明治神宮)]]
なお、神社は公的な立場を失ったものの、戦前には禁じられていた神葬祭の実施や各種の祈祷の隆盛により、経済的には戦前を上回る繁栄を手にした<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「|1999|pp=3-23|loc=神社と神道の歴史」『神道事典』弘文堂, 1999">國學院大學日(井上順孝・阪文化研究所編「神社と神道の歴史」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>是丸)}}。[[高度経済成長]]によって日本経済が向上すると、神社においても戦前を上回る整備や拡充が行われるようになった<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「|1999|pp=3-23|loc=神社と神道の歴史」『神道事典』弘文堂, 1999">國學院大學日(井上順孝・阪文化研究所編「神社と神道の歴史」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>是丸)}}。他方、経済成長により都市化が進むと、地方の過疎化に伴う氏子の減少や神職の後継者不足といった問題が顕在化していった<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「|1999|pp=3-23|loc=神社と神道の歴史」『神道事典』弘文堂, 1999">國學院大學日(井上順孝・阪文化研究所編「神社と神道の歴史」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>是丸)}}。都市の神社においても、氏子層の流動化や都市開発による神社環境の悪化、名目氏子の増大などの問題を抱えるようになった<ref name="{{Sfn|國學院大學日本文化研究所編「|1999|pp=3-23|loc=神社と神道の歴史」『神道事典』弘文堂, 1999">國學院大學日(井上順孝・阪文化研究所編「神社と神道の歴史」『神道事典』弘文堂, 1999</ref>是丸)}}。平成に入ると、2000年代からはパワースポットブームが生じ、2010年代以降には御朱印集めもブームとなって、神社に参詣する人が増加した一方、その境内地での振る舞いやマナー、御朱印の転売などといった問題も生じ始めた<ref>{{Cite | title = ブームの令和元年「御朱印集め」のルールとマナー、そして嘆き | url = https://www.news-postseven.com/archives/20190615_1391470.html | publisher = NEWSポストセブン | accessdate = 2021-06-08}}</ref>。
 
現代における神社は、[[初詣]]、[[お宮参り]]、[[七五三]]、[[結婚式]]など、個人や家族の年中行事や人生儀礼における役割を果たしている<ref name="岡田莊司『日本神道史』吉川弘文館, 2010">岡田莊司『日本神道史』吉川弘文館, 2010</ref>。また、文化財の保護という側面から見ても重要な役割を果たしており、神社の社殿の建築における国宝指定数は2009年時点で27件30社に至っており、祇園祭など神社の祭祀や儀礼が[[重要文化財]]に登録されている例も多くあり、[[流鏑馬]]や[[雅楽]]、[[神楽舞]]など多くの伝統芸能が保存されている<ref name="岡田莊司『日本神道史』吉川弘文館, 2010">岡田莊司『日本神道史』吉川弘文館, 2010</ref>。また、都会の中に約100ヘクタールもの森林と約3000種の生物を有する明治神宮をはじめとして、多くの神社はその境内に森林を有しており、都市における森林保全の役割も担っている<ref name="岡田莊司『日本神道史』吉川弘文館, 2010">岡田莊司『日本神道史』吉川弘文館, 2010</ref>。また、神社界から環境問題に関する発言が行われる例も増えており、2009年には、世界中の多様な宗教者が集まる「平和のための世界集会」に神道の代表者として神社本庁が参加し、神道の立場から自然と人類の共生の必要性を訴えた<ref name="阪本是丸・石井研士編『プレステップ神道学』弘文堂, 2011">阪本是丸・石井研士編『プレステップ神道学』弘文堂, 2011</ref>。
 
== 参考文献 ==
<!-- 実際に参考にした文献一覧(本文中の追加した情報の後に脚注を導入し文献参照ページを示して、実際に参考にした出典〈書籍や論文、ウェブページなど〉のみを列挙して下さい。さらにこの項目を理解するのに役立つ関連した文献は、「関連文献」などとセクション名を分けて区別して下さい。) --><!-- 出版年順に並べます。 -->
* {{Cite book |和書 |authorothers=[[岡田莊司平重道]]・[[阿部秋生]]校注 |title=日本近世神道論 前期国学 |publisher=[[吉川弘文館岩波書店]] |dateseries=2010日本思想大系 39 |date=1972 |ref=harv}}<!-- 奥付の表記に合わせます。 -->
* {{Cite book |和書 |authorothers=[[神社本庁大隅和雄]]監修校注 |title=中世社のいろは 続道論 |publisher=[[扶桑社]]岩波書店 |series=日本思想大系 19 |date=20131977 | ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=[[阪本是丸義江彰夫]] ・[[石井研士]]監修|title=プレステップ道学仏習合 |publisher=[[弘文堂岩波新書]] |date=20111996 | ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |authoreditor=[[國學院大學]]日本文化研究所 |title=〔縮刷版〕神道事典 |publisher=[[弘文堂]] |date=1999 | ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=[[伊藤聡末木文美士]] |title=中世のは何か |publisher=[[中公新書山川出版社]] |date=20122003 | ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=[[義江彰夫葦津珍彦]] |title=新版 国家仏習合道とは何だったのか |publisher=[[岩波神社報社]] |date=19962006 | ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |authoreditor=[[末木文美士岡田莊司]] |title=中世の日本と仏道史 |publisher=[[出版社弘文館]] |date=20032010 | ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |authorothers=[[大隅和雄阪本是丸]] ・[[石井研士]]監修 |title=中世プレステップ神道 |publisher=[[岩波書店弘文堂]] |date=19772011 | ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=[[森和也伊藤聡]] |title=神道・仏教・儒教とは何か |publisher=[[ちくま中央公論]] |dateseries=2018中公新書 2158 |date=2012 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=[[平重道神社本庁]]ほか監修 |title=前期国学・近世道論社のいろは 続 |publisher=[[岩波書店扶桑社]] |date=19762013 | ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=[[葦津珍彦森和也]] |title=新版 国家神道とは何だったのか・仏教・儒教 |publisher=[[神社ちくま報社]] |date=20062018 | ref=harv}}
 
{{神道 横}}
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