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| 母親 = [[アティア・バルバ・カエソニア]]
}}
'''アウグストゥス'''(Augustus)({{lang-la-short|Imperator Caesar Divi Filius Augustus}} <small>インペラートル・カエサル・ディーウィー・フィーリウス・アウグストゥス</small>、{{lang|la|Gaius Julius Caesar Octavianus Augustus}} <small>ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス</small>、[[紀元前63年]][[9月23日]] - 紀元[[14年]][[8月19日]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Augustus-Roman-emperor Augustus Roman emperor] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>)は、[[ローマ帝国]]の初代[[ローマ皇帝|皇帝]](在位:[[紀元前27年]] - 紀元14年)。
AUGUSTE IS A VERY BIG BITCH
 
== 概要 ==
AND UR MOTHER TOO LMAOパ率いる海軍は[[アクティウムの海戦]]で勝利した。アントニウスとクレオパトラは[[アレクサンドリア]]へ逃れるも、その後を追撃されアントニウスは自害、直後にクレオパトラも自害したため、ここに[[プトレマイオス朝]]は滅亡した。その際、オクタウィアヌスは多数の財宝を得ており、これを兵士の退職金に充てたと思われる。カエサルの実子を名乗る[[カエサリオン]]は殺されたが、その他のアントニウスの遺児たちはオクタウィアの下で養育された([[カリグラ]]、[[クラウディウス]]、[[ネロ]]らはその血筋である)。こうして、1世紀に及ぶ内戦の時代は終結した。
志半ばにして倒れた養父[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]の後を継いで内乱を勝ち抜き、[[地中海世界]]を統一して[[帝政]]([[プリンキパトゥス|元首政]])を創始、'''[[パクス・ロマーナ]]'''(ローマでの平和)を実現した。ちなみにアウグストゥスは、[[ラテン語]]で「尊厳ある者」を意味しており、現在の[[英語]]や[[ドイツ語]]や[[オランダ語]]等の[[ゲルマン諸語]]や、[[ギリシア語]]、[[スペイン語]]や[[ポルトガル語]]や[[フランス語]]等の[[ロマンス語派]]諸語、[[ロシア語]]や[[ウクライナ語]]や[[ベラルーシ語]]等の[[スラヴ語派]]諸語等、欧米諸国の全域に於いて「8月」([[英語]]: August)の意になっている。アウグストゥスの当初の名前は'''オクタウィウス'''であるが彼は成長とともに幾度か名前を変えており<ref>[[古代ローマの人名#個人名の変化]]も参照</ref>、混乱を避けるために後代の歴史家は彼を'''オクタウィアヌス'''と呼んだが、オクタウィアヌスとは「オクタウィウスだった者」という意味であって、オクタウィウス自身がオクタウィアヌスの名を用いたことはない<ref>[[#ビアード2018|ビアード2018]]、p.65。</ref>。
 
== 生涯 ==
=== 幼少期 ===
[[Image:Agrip6.jpg|200px|thumb|アグリッパ]]
[[エクィテス|騎士階級]]に属する{{仮リンク|ガイウス・オクタウィウス|en|Gaius Octavius (father of Augustus)}}と[[アティア・バルバ・カエソニア|アティア]]([[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]の姪)との間に生まれる。出生の時の名は'''ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス'''({{lang|la|Gaius Octavius Thurinus}})と称する。姉には[[小オクタウィア]]がいた。
 
幼少の頃はウェレトラエ(現[[ヴェッレトリ]])の祖父のもとで過ごす。[[紀元前58年]]、父と死別する。その後、母アティアは[[ルキウス・マルキウス・ピリップス (紀元前56年の執政官)|ルキウス・マルキウス・ピリップス]]と結婚、この時、トゥリヌスは新夫妻の元へ引き取られ、継父は実子とともにトゥリヌスを可愛がったという。
 
=== 政治に参加 ===
[[紀元前47年]]には[[ポンティフェクス|神祇官]]{{enlink|Pontiff}}に任命される。[[紀元前46年]]には大叔父カエサルの建造した[[ウェヌス]]神殿を記念して[[古代ギリシア|ギリシア]]の[[古代オリンピック]]に参加させられる。本来は大叔父のアフリカ遠征に付き従いたかったが、母アティアの反対により断念となった。[[紀元前46年]]にカエサルの[[ヒスパニア]]遠征に従軍したが、[[ムンダの戦い]]でカエサル軍が勝利をすでに収めた後であり、自身も出立直前に病に倒れる結果となってしまった。病が治るとすぐに戦場に船で急行したが、途中で船が難破し、カエサルと敵対する勢力の真ん中に漂流してしまう。ここでトゥリヌスは生き残った少数の兵を掌握して敵陣を横断、この彼の行動はカエサルに強い印象を与え、一説にはこの時にカエサルは自分の後継者としてトゥリヌスを選ぶことにしたという。またトゥリヌスは、計画されていた[[パルティア]]遠征には司令官として赴くことになっていた。そして虚弱体質で軍才もないという弱点を補うべく、生涯の盟友となる[[マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ]]ともこの前後に引き合わされた。
 
=== 権力掌握へ ===
==== カエサル暗殺 ====
[[Image:Julius Caesar Coustou Louvre MR1798.jpg|200px|thumb|ガイウス・ユリウス・カエサル]]
[[紀元前44年]][[3月15日]]に[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]が[[マルクス・ユニウス・ブルトゥス]]、[[ガイウス・カッシウス・ロンギヌス]]らに暗殺される。この時はカエサルの指示で、トゥリヌスはギリシア西海岸にて遊学中であったが、急遽[[ローマ]]へ帰還する。その途中、ギリシアからほど遠くない南部イタリア、[[ブリンディジ|ブルンディシウム]]近郊のリピアエでカエサルが自分を後継者に指名していたことを知る。これにより、わずか18歳の無名な青年に過ぎなかったトゥリヌスは、一躍有名になった。そして以後、'''ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス'''({{lang|la|Gaius Julius Caesar Octavianus}})を名乗ったようである<ref>しかし、この時点でこの名を名乗ったという記録はなく、また一部では疑問視もされている{{要出典|date=2008年2月}}。すなわち「ガイウス・ユリウス・カエサル」という[[パトリキ]]の名門貴族の名を継ぐことは、騎士階級出身でしかなかった彼の低い出自では憚られることであったからである。</ref>。
 
ブルンディシウムでカエサル配下の軍団兵たちから温かい歓迎を受けたオクタウィアヌスは、カエサルの側近たちの協力も得て、カエサルの遺志である[[パルティア]]との戦争を遂行するため、カエサルが集めた公的資金を要求、70万[[セステルティウス]]もの資金がブルンディシウムに集められた。そして[[元老院 (ローマ)|元老院]]の査察のもと、その資金で軍団を編成し、東方に派遣したとされているが、実情は[[マルクス・アントニウス|アントニウス]]を中心とする元老院の反オクタウィアヌス派に対抗するための軍団を編成していた。そして、また彼は、権限なしで東方の[[属州]]からローマにわたるはずの税収を収用した。
 
パルティアはカエサルが戦うはずであった宿敵であり、この戦争をちらつかせることでオクタウィアヌスはカエサルの後継者としての支持を集める。そしてローマへの帰還中、オクタウィアヌスのもとに様々な支持、とくに[[カンパニア]]在住のカエサル配下の退役兵から熱烈な支持を受ける。6月までに3,000の退役兵が集合し、オクタウィアヌスは1人につき500[[デナリウス]]の給付金を配った。こうしてカエサルの古参兵、側近とともにオクタウィアヌスは勢力を拡大し、有力なカエサルの後継者候補として政治の表舞台に躍り出た。
 
==== ローマ帰還 ====
紀元前44年5月6日にオクタウィアヌスがローマに戻った時点で、この年カエサルとともに[[執政官]]であった[[マルクス・アントニウス]]とカエサルを殺した[[元老院派]]との間で既に不戦条約が結ばれており、カエサル暗殺の首謀者は各自恩赦により3月17日付で国外に退去、マルクス・ブルトゥスとカッシウスはギリシアに赴任し、[[デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌス]]は[[ガリア・キサルピナ]][[属州]](現在の北イタリアの一部であるが、当時は[[イタリア本土 (古代ローマ)|本土イタリア]]の内と考えていなかった)を支配下に押さえていた。
 
ローマに戻ったオクタウィアヌスは、軍団兵の支持厚い名将、[[民衆派]]の政治家として人気の高かったカエサルの葬儀を執り行った。カエサルの財産の4分の3を相続するはずだったオクタウィアヌスだが、下記のようにアントニウスの妨害にあってそれを入手できないでいた。しかし借金などの金策に努めてカエサル配下の軍団に給与を支払い、ローマ市民にも遺言に従って一時金を支給するなどして、支持を取り付けた。
 
次第に頭角を現すオクタウィアヌスに対して、カエサルの死後、単独の執政官として事実上権力を掌握していたアントニウスは危機感を募らせた。当時アントニウスはカエサルの公的遺産を着服していたため、これを譲り渡すようオクタウィアヌスが説得した。アントニウスはこれを拒否し、オクタウィアヌスは説得には失敗するものの、多数のカエサル支持者から同情を買うこととなった。<!--一方のオクタウィアヌスはカエサルとの性的関係から後継者の地位をつかんだと元老院で告発、様々な妨害を試みる。しかしながらアントニウス自身、単独執政官として独断を行っているとキケロなどの元老院派から非難もされていた。*どちらがどちらを告発したのか分かり難いです。*-->
 
同年9月には、アントニウスと対立していた[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]がオクタウィアヌスと接近し、協力するようになる。オクタウィアヌスはキケロら元老院派と手を組んでアントニウスを論難、アントニウスは元老院の脅威となっていると弾劾した。次第にアントニウスは元老院で孤立してゆき、さらに1年間である執政官の任期も迫ってきたため窮地に陥った。
 
この窮地に対してアントニウスは防衛策を打つ。執政官の任期が切れる前に、自分の身柄を保護する場所として属州ガリア・キサルピナに注目したのである。この属州は、上述のとおり当時デキムス・ブルトゥスが統治していたが、彼に代わり自らの統治を認める法案を元老院で成立させる。この間、オクタウィアヌスはカエサルの古参兵を招集して自らの軍隊を着々と編成、加えて10月28日にアントニウス配下の2個[[レギオ|軍団]]も指揮下に入れる。12月31日に執政官の任期を終えたアントニウスは、翌[[紀元前43年]]1月1日にガリア・キサルピナへと逃れた。
 
==== オクタウィアヌス、元老院議員に ====
[[Image:RSC 0002a.jpg|300px|thumb|レピドゥスとオクタウィアヌスが描かれたコイン]]
ガリア・キサルピナの委譲を拒否するデキムス・ブルトゥスはムティナ(現[[モデナ]])でアントニウス軍に包囲された。元老院は争う両者を止めようとするも失敗し、自らの軍を持たない元老院に代わってオクタウィアヌスがこの状況を活用しようとする。この時点でオクタウィアヌスが自ら配下の軍団を持っていることは周知の事実であった。オクタウィアヌスは高貴な血統もないユリウス・カエサルのまがい物だというアントニウスの愚弄に対し、キケロは「これ(オクタウィアヌス)以上に見事な伝統的な孝行の例は、我々の若い頃にだってない」と擁護した。そして[[紀元前43年]]1月1日、元老院はオクタウィアヌスを元老院議員に任命、そして[[インペリウム|指揮権]]を与えた。この年の執政官である[[アウルス・ヒルティウス|ヒルティウス]]と[[パンサ]]とともにアントニウスが行っている包囲攻撃を中止させようと試みるが、両執政官はアントニウスとの戦いで戦死した([[ムティナの戦い (紀元前43年)|ムティナの戦い]])。
 
元老院は台頭するオクタウィアヌスを恐れてデキムス・ブルトゥスに近づき、上記の両執政官が率いた軍団の指揮権を委ねることを決議した。これに反発したオクタウィアヌスは前線から撤退、[[ポー川]]流域に留まり、それ以上のアントニウスへの攻撃要請を拒否した。
 
6月にオクタウィアヌス配下の[[ケントゥリオ]]がローマに赴き、ヒルティウスとパンサが有していたこの年の執政官特権を委託するよう要請、またアントニウスを「国家の敵」として断罪することを破棄するよう要請した。元老院がこれを拒否すると、オクタウィアヌスは8個軍団を率いてローマに進軍する。さしたる抵抗なく8月19日にローマに入城した彼は、親戚である[[クィントゥス・ペディウス]]とともに改めて執政官に選ばれる。一方でアントニウスは、同僚でカエサル支持派でもあった[[マルクス・アエミリウス・レピドゥス]]と連合して元老院と対峙した。ここで、内心はカエサルの後継者として[[帝政]]([[プリンキパトゥス|元首政]])を目指すオクタウィアヌスは、彼らとの妥協を模索した。
 
=== 第2回三頭政治 ===
==== 元老院派の粛清 ====
紀元前43年10月、[[ボローニャ]]においてオクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスによる会談により[[第二回三頭政治]]が成立した。この同盟関係は、密約であったカエサル、ポンペイウス、クラッススが結んだ[[第一回三頭政治]]と異なり、公然としたものであった。彼らは国家再建三人委員会を開設し、カエサル暗殺者逮捕を名目に、元老院派の排除に乗り出した。その際、かつての[[ルキウス・コルネリウス・スッラ]]のように、作成された[[プロスクリプティオ|名簿]]に基づいて[[元老院派]]と目された元老院議員約300人、騎士身分約2,000人が殺害、財産が没収されたといわれる。粛清リストにキケロの名があったため、{{要出典範囲|盟友であったオクタウィアヌスは粛清の実行をためらっていたが、|date=2010年6月}}アントニウスのキケロに対する憎悪は激しく、この大量粛清は非情に断行され、キケロも殺害された<ref>この惨劇は後に[[20世紀]]の歴史家から皮肉にも「ローマ革命」と名づけられている。あまりにも多くの血が流れ、従来の元老院の旧体制勢力が絶え、代わりに三頭政治の支持者に入れ替わったからである。</ref>。こうして元老院派は、ギリシアで兵を集めていたマルクス・ブルトゥスとカッシウスを残すのみとなった。
 
==== フィリッピの戦い ====
{{main|フィリッピの戦い}}
[[紀元前42年]]1月1日、元老院はカエサルの神格化を決定、'''神君ユリウス''' ({{lang|la|Divus Julius}}) となる。これによりオクタウィアヌスは「神君の子」として元老院での影響を強めた。一方アントニウスは、オクタウィアヌスの影響を恐れてカエサルの神格化に反対したが、このためにローマ市民やカエサル配下の退役兵からの支持を失うことになった。
 
[[ファイル:Maecenas Coole Park.JPG|200px|thumb|ガイウス・マエケナス]]
今や同盟関係となったオクタウィアヌスはアントニウスとともに28個もの軍団を率いて[[マケドニア属州]]に進攻、親友であり側近のアグリッパと共に転戦した。最終的にギリシアの[[フィリッピの戦い]]でブルトゥス、カッシウスらに勝利し、敗れた2人は自害した。この戦いではオクタウィアヌス自身は軍を指揮せず、配下のアグリッパに指揮を託していた。このオクタウィアヌスの態度をアントニウスは臆病者となじり、この戦いの勝利は自分の功績だと主張したという。
 
オクタウィアヌスがアグリッパと並ぶ片腕である[[ガイウス・マエケナス]]を見出したのは、この時期であったとされる。軍事のアグリッパに対し、マエケナスは内乱期の外交交渉に活躍した。しかも、その役目を十全に果たすために自らの[[クルスス・ホノルム]]を犠牲にして、オクタウィアヌスの私設顧問のような形をとった。内乱終結後は文化振興に従事して、[[メセナ]]の語源となった。
 
==== 戦後処理 ====
戦後、再び三頭政治内で三者の支配地域の取り決めが行われ、アントニウスはガリア・キサルピナからエジプトへ移った。ここでカエサルの愛人であった[[プトレマイオス朝]]女王[[クレオパトラ7世]]とその子[[カエサリオン]]と出会う。レピドゥスはアフリカへと赴任する。イタリア本国に留まることになったオクタウィアヌスだったが、迅速に解決すべき問題に迫られる。軍団兵たちの処遇問題で、フィリッピの戦いで味方として戦った兵士だけでなく、敵兵も軍役の義務の対価として土地の要求をしていた。もし譲歩しなければ、これらイタリア在住の兵士は敵方に寝返りかねない。しかし内紛では、兵士に配るだけの新たな土地もあるわけがなく、既存のローマ市民の自治体に強引な割り込みをしなくてはならない。兵士を取るか、市民を取るか、苦渋の選択でオクタウィアヌスは兵士の側に立ち、強引に地方共同体に退役兵の入植を行った。しかしこの戦後処理は十分とは言えず、兵士の中には不満が残った。これを元老院と結託した[[ルキウス・アントニウス]](マルクス・アントニウスの弟)に攻撃の隙ととらえられてしまう。
 
==== アントニウス派の武装蜂起 ====
{{main|ペルシアの戦い}}
ルキウスと手を組んだアントニウスの妻フルウィラは、イタリア本国在住の兵士と結託、8個軍団を編成してオクタウィアヌスへ攻撃をしかけようとする。しかし、彼らの兵士の給付金は三頭政治の3人の管轄である以上、この武装蜂起自体がリスクの高い賭けであった。ルキウス側はすぐに資金が困難となり、即座にペルシア(現[[ペルージャ]])でオクタウィアヌスに包囲される。結果、ルキウス・アントニウスは[[紀元前40年]]初頭に降伏、フルウィラは東方へと亡命した。この敵対行動をオクタウィアヌスは許さず、ルキウスと結託した元老院議員と騎士階級300人を処刑した。この処刑は汚点となり、後の詩人[[セクストゥス・プロペルティウス]]に批判されている。
 
同年、オクタウィアヌスは[[セクストゥス・ポンペイウス]]の親族{{仮リンク|スクリボニア|en|Scribonia (wife of Octavian)}}と再婚した。しかし後に、スクリボニアの性格に耐えきれず、またセクストゥスとの間が険悪化したため、翌年に唯一の実子である[[ユリア (アウグストゥスの娘)|ユリア]]が誕生すると同時に離婚した。そして[[紀元前38年]]、健康で聡明な[[リウィア・ドルシッラ]]と再々婚した。これは恋愛結婚あるいは略奪婚といわれ、オクタウィアヌスは彼女の夫[[ティベリウス・クラウディウス・ネロ]]に直談判をして離婚させリウィアを娶ったとされる。また、リウィアは連れ子[[ティベリウス]]の他に夫の子を妊娠中であったため、紀元前38年1月14日に[[大ドルスス]]を出産した後に夫と離婚し、[[1月17日]]に結婚式を挙げた。
 
対するアントニウスは、エジプト滞在中にクレオパトラと関係を深め、後に2人の間には{{仮リンク|アレクサンデル・ヘリオス|en|Alexander Helios}}、[[クレオパトラ・セレネ]]、{{仮リンク|プトレマイオス・ピラデルプス|en|Ptolemy Philadelphus (son of Cleopatra)}}が生まれる。
 
アントニウスはルキウスの反乱に呼応して、紀元前40年にエジプトからイタリアへ遠征、ブルンディシウムを包囲する。しかしこのような内紛はオクタウィアヌス、アントニウス双方の兵士にも耐えがたく、カエサル配下であったケントゥリオたちは相次ぐ戦争への従軍を拒否した。また、先の武装蜂起を起こした1人であったフルウィラは同年死去、妻の死を見取れなかったアントニウスは落胆したこともあり、秋になると2人は再び盟約を結んだ({{仮リンク|ペルシアの戦い|en|Antony's Parthian War}})。
 
この盟約でそれぞれの支配地域が再確認され、アントニウスは東方の属州、レピドゥスは北アフリカ、そしてオクタウィアヌスはイタリア半島以西となった。先の紛争では困難な状況に陥ったオクタウィアヌスであったが、別の視点から見ればイタリア半島は[[軍団兵]]の募集が容易で、東方にいるアントニウスの方が不利であった<ref>[[ローマ市民権]]保持者でなければ軍団兵にはなれないため。ローマ市民権を持たない属州民は補助兵([[アウクシリア]])としてローマ軍に従軍した。</ref>。さらにオクタウィアヌスは盟約を確固とするために、姉である[[小オクタウィア]]と妻を失ったばかりのアントニウスを結婚させた。後にこの2人の間には[[大アントニア]]と[[小アントニア]]が生まれる。
 
==== ポンペイウス派との戦い ====
{{main|ナウロクス沖の海戦}}
[[Image:RSC 0017.jpg|300px|thumb|セクストゥス・ポンペイウスが描かれたコイン]]
三頭政治が成立し、中央の元老院派が根絶やしになった後も、地方では元老院派が残っていた。その最たるものは[[グナエウス・ポンペイウス・マグヌス]]の次男[[セクストゥス・ポンペイウス]]で、カエサル派で統一された三頭とは本来敵対関係にあるはずだったが、当初オクタウィアヌスとアントニウスは競ってこのポンペイウスの次男と同盟を結ぼうとした。当初オクタウィアヌスはセクストゥクスと和議、[[サルデーニャ|サルディニア島]]、[[コルシカ]]、[[シチリア|シキリア]]、[[ペロポンネソス半島]]の領有権を認め、さらに[[紀元前35年]]の執政官になることも確約していた。
 
しかし、セクストゥスがイタリア半島への小麦の運搬船を妨害し始め、イタリア半島の食糧供給が悪化する。自らを「[[ネプトゥヌス]]の子({{lang|la|Neptuni Fillius}})」と呼び、地中海の制海権を脅かすセクストゥスをオクタウィアヌスは看過できず、両者の関係は悪化した。オクタウィアヌスはセクストゥスとの戦争をはじめるためにアントニウスへ援助を要請、アントニウスはこれを承諾した。
 
アントニウスが政敵であるオクタウィアヌスに力を貸したのは、自身の野心、すなわちカエサルが実現できずに終わった[[パルティア]]遠征を達成するために貸しを作りたかったからであった。[[カルラエの戦い]]で[[マルクス・リキニウス・クラッスス|クラッスス]]が破れ、屈辱的な敗北のままでいるローマにとって、パルティアへの勝利は市民や軍人の支持を得るには格好の事業であった。
 
そして[[紀元前37年]]、三頭が再び集まり、三頭政治の5年間延長を決定した。アントニウスはオクタウィアヌスに120隻の軍船を、オクタウィアヌスはアントニウスに2万の軍団兵を相互に提供することを約束した。アントニウスはオクタウィアヌスに約束した軍船を送った。しかしオクタウィアヌスは[[紀元前36年]]のパルティア戦争の際、姉のオクタウィアがアテネへ行くときに、約束の10分の1である2,000人を送っただけであった。
 
紀元前36年[[9月3日]]、[[ナウロクス沖の海戦]]でセクストゥス・ポンペイウスは、アグリッパ率いるオクタウィアヌス軍に敗北する。そしてオクタウィアヌスとレピドゥスはシチリア島に上陸した。セクストゥスは逃亡を図るが、[[紀元前35年]]にアントニウス派の手の者に捕まり処刑された。
 
==== レピドゥス失脚 ====
シキリアを占拠したオクタウィアヌスとレピドゥスは、ポンペイウス派の残存勢力を一掃した。レピドゥスはオクタウィアヌスを放逐し、シキリアを独占するつもりでいたが、ここでレピドゥスの部下がオクタウィアヌスに買収されて寝返った。孤立したレピドゥスはオクタウィアヌスに降伏、終身職たる[[最高神祇官]]職の保持は許されたが、これにより三頭政治の一角が失脚した。
 
オクタウィアヌスはローマ人の権利を確約、今度は退役兵をイタリア半島外へと入植させ、ポンペイウスの軍に参加した持ち主が帰参した後もそのままポンペイウスのもとに留まっていた奴隷を元の持ち主に返還させた。こうして共和政ローマは東のアントニウス、西のオクタウィアヌスと2分され、カエサル暗殺時に18歳だった無名の青年はローマの半分を支配する人物となっていた。
 
==== アントニウス弾劾 ====
[[Image:Roman-Empire-Triumvirat2.png|thumb|300px|right|[[紀元前33年]]の共和政ローマおよび地中海世界{{legend|#33ff99|オクタウィアヌス支配地域}}{{legend|#3366ff|アントニウス支配地域}}{{legend|#9999ff|プトレマイオス朝およびアントニウスの同盟国}}]]
[[File:Donations of Alexandria 34BC.gif|300px|thumb|紀元前34年にアントニウスとクレオパトラが宣言したローマ東方領土の分割図({{仮リンク|アレクサンドリアでの贈与|en|Donations of Alexandria}})。<br/>*アレクサンドロス・ヘリオスをアルメニア王とし、メディアとパルティアの王ともする。<br/>*クレオパトラ・セレネには[[キュレナイカ]]とリビアを譲渡。<br/>*プトレマイオス・フィラデルフォスには[[シュリア属州|シリア]]と[[キリキア属州|キリキア]]を譲渡。<br/>*クレオパトラおよびカエサリオンはエジプト王であるだけでなく、東方の諸王の王と認め、さらに[[キプロス島]]を譲渡。<br/>*カエサリオンは[[ユリウス・カエサル]]の息子であることを公認し、カエサリオンこそがカエサルの正統な後継者であるとする。]]
アントニウスは念願のパルティア遠征を実行に移す。しかし結果は惨敗に終わり、エジプトに戻った司令官としての彼のイメージは大きく損なわれた。また前述のように、オクタウィアヌスの支援は2,000人に過ぎなかった。クレオパトラはアントニウスの軍隊を再建できるほどの財力を持っており、これを好機として、クレオパトラと親密であったアントニウスは妻オクタウィアを一方的に離縁する。しかし、この一件はオクタウィアヌスにアントニウス攻撃の格好の口実を与えた。
 
オクタウィアヌスはアントニウスを弾劾した。アントニウスはエジプト人と公式に結婚し、ローマ人の妻である姉を見捨て、ローマ人以下になったと演説した。アントニウスがローマ人としての振る舞いを正さない限り、このローマの内乱は終わらないと非難した。しかし、アントニウスはこれを拒絶、それどころかローマ人の神経を逆なでするようなことを繰り返す。
 
[[紀元前34年]]、アントニウス配下のローマ軍が[[アルメニア王国]]を攻撃、国王[[アルタウァスデス2世]]を捕虜とした。アントニウスはアルメニア遠征の成功により[[アレクサンドリア]]で[[凱旋式]]を行ったが、彼はクレオパトラとの実子アレクサンデル・ヘリオスを王に据えたほか、妻となったクレオパトラにエジプト女王の称号を授けるなどした。オクタウィアヌスはこれを政治的に利用して、アントニウスはローマ人をないがしろにすると民衆および元老院を扇動、アントニウスをローマ社会から孤立させることに成功する。
 
[[紀元前33年]]1月1日、この年の執政官となったオクタウィアヌスは、元老院にてアントニウスとクレオパトラへの宣戦布告の決議案を提出する。しかし一部の元老院議員は、彼が行ってきたアントニウス非難を政治的なプロパガンダとしか見ておらず、アントニウスの告発の根拠を求める。これに応じたオクタウィアヌスは、[[ウェスタの巫女]]からアントニウスの遺書を奪い、その封印を開いた。
 
アントニウスの遺書には、ローマの征服した地域はアントニウスの子に受け継がれるべきこと、アントニウスの墓はアレクサンドリアに立てられ、クレオパトラと共に葬られるべきことが書かれていた。これを受けて元老院もアントニウスを見限り、[[紀元前32年]]末にプトレマイオス朝に宣戦布告した。
{{-}}
 
==== アクティウムの海戦 ====
{{main|アクティウムの海戦}}
[[画像:Castro_Battle_of_Actium.jpg|300px|thumb|アクティウムの海戦]]
オクタウィアヌス軍はアグリッパの指揮の下、[[アドリア海]]の制海権を確立し、クレオパトラの兵站補給路を寸断した。その後、ギリシアの[[コルフ島]]の対岸に上陸し、そこから南方へ軍艦で進軍する。補給路が断たれ孤立したアントニウスの軍ではオクタウィアヌスのもとに帰参する者も出たが、戦争の実績と軍事力ではアントニウス軍が圧倒的に有利な立場にあった。こうしてオクタウィアヌスとアントニウスとの対決の布石は整い、以前ギリシア西海岸に遊学していたこともありオクタウィアヌスが立地条件に詳しかった[[アクティウム]]沖、現在の[[ニコポリス]]にアントニウスとクレオパトラが誘い出されて、狭い海峡で両軍が激突することになった。この戦いに、当時世界最大の海軍を保有していたアントニウスとクレオパトラの軍は約230隻の大型の軍艦を投入した。対してオクタウィアヌス軍の実質的な指揮官であるアグリッパは、大きさは劣るものの機動力で勝る軍艦約400隻を投入した。アグリッパはローマ人には珍しく海戦を得意とした将軍であり、[[ナウロクス沖の海戦]]でセクストゥス・ポンペイウス軍に圧勝した実績もあった。
 
[[紀元前31年]][[9月2日]]、オクタウィアヌスとアグリッパ率いる海軍は苦戦を強いられていたものの、機動力と地の利により、戦況は徐々にアグリッパ艦隊有利に傾いた。すると、戦場から突然クレオパトラがエジプトに逃げ去り、アントニウスもその後を追ったため、指揮官を失ったアントニウス軍は総崩れとなった。結果、オクタウィアヌスとアグリッパ率いる海軍は[[アクティウムの海戦]]で勝利した。アントニウスとクレオパトラは[[アレクサンドリア]]へ逃れるも、その後を追撃されアントニウスは自害、直後にクレオパトラも自害したため、ここに[[プトレマイオス朝]]は滅亡した。その際、オクタウィアヌスは多数の財宝を得ており、これを兵士の退職金に充てたと思われる。カエサルの実子を名乗る[[カエサリオン]]は殺されたが、その他のアントニウスの遺児たちはオクタウィアの下で養育された([[カリグラ]]、[[クラウディウス]]、[[ネロ]]らはその血筋である)。こうして、1世紀に及ぶ内戦の時代は終結した。
 
[[紀元前29年]]、ローマに凱旋したオクタウィアヌスは元老院の[[プリンケプス]]となった。プリンケプスとは、元老院内での第一人者を表す称号であり、かつては[[クィントゥス・ファビウス・マクシムス]]や[[スキピオ・アフリカヌス]]がそうであった。帝政下では全てのローマ市民の中で第一の地位を占める「元首=皇帝」を指すようになった。