「景行天皇」の版間の差分

ヤマトタケル関連の訂正。景行天皇や成務天皇も崩御年と葬儀年は異なる
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(ヤマトタケル関連の訂正。景行天皇や成務天皇も崩御年と葬儀年は異なる)
活目天皇([[垂仁天皇]])の第3皇子、母は[[日葉酢媛命]](ひばすひめのみこと)。垂仁天皇37年1月1日に21歳で[[立太子]]。
 
父帝が崩御した翌年に即位。即位2年、3月3日に[[播磨稲日大郎姫]]を皇后とした。皇后との間には[[大碓皇子]]、[[ヤマトタケル|小碓尊]]らを得ている。即位4年、[[美濃国]]に行幸。[[八坂入媛命]]を妃として[[成務天皇|稚足彦尊]](成務天皇)、[[五百城入彦皇子]]らを得た。即位12年、[[九州]]に親征して[[熊襲]]・[[土蜘蛛]]を征伐<ref name=kadowaki192/>。即位27年、[[熊襲]]が再叛すると小碓尊(16歳)を遣わして[[川上梟帥]]を討たせた<ref name=kadowaki192/>。即位40年、前もって[[武内宿禰]]に視察させた東国の[[蝦夷]]平定を小碓尊改め日本武尊に命じた<ref name=kadowaki192/>。3年後、日本武尊が国中に[[伊勢国]]能褒野で30歳で逝去した日本武尊を白鳥陵に埋葬。即位51年、8月4日に稚足彦尊を立太子。即位52年、5月4日の播磨稲日大郎姫の崩御に伴い7月7日に八坂入媛命を立后。即位53年から54年にかけて日本武尊の事績を確認するため東国巡幸。即位58年、[[近江国]]に行幸し高穴穂宮に滞在すること3年。即位60年、同地で崩御。
 
在位した年代は[[4世紀]]前期から中期の[[大王 (ヤマト王権)|大王]]と推定されるが、諸説ある。
=== 日本武尊の活躍 ===
{{Main|ヤマトタケル}}
即位27年8月、[[熊襲]]が再叛。10月に小碓尊(16歳)に命じて熊襲を征討させる。小碓尊は首長の川上梟帥を謀殺して日本武尊の名を得る。翌年に復命。
 
即位40年8月、大碓皇子に東国の蝦夷を平定するよう命じる。先立つ即位25年7月から27年2月、武内宿禰に[[北陸]]・東方諸国を視察させて豊かな土地を発見したからであった。しかし大碓皇子は危険な任務を拒否し[[美濃国]]に封じられた。結局、日本武尊が東征に向かうこととなり、途中の[[伊勢神宮]]で叔母の[[倭姫命]](やまとひめのみこと)から[[天叢雲剣|草薙剣]]を授かった。[[陸奥国]]に入り、戦わずして蝦夷を平定。日高見国から新治([[茨城県]][[真壁郡]])・[[甲斐国]][[酒折宮]]・[[信濃国]]を経て[[尾張国]]に戻り、[[宮簀媛]](みやずひめ)と結婚。その後[[近江国]]に出向くが、[[伊吹山|胆吹山]]の荒神に祟られて身体不調になる。日本武尊はそのまま[[伊勢国]]に入るが能褒野(のぼの、[[三重県]][[亀山市]])で病篤くなり30歳で[[崩御]]、[[ヤマトタケル#墓|白鳥陵]]に葬られた。出発から三年後のことである。
 
天皇は日本武尊の死を深く嘆き悲しんだ。即位53年、日本武尊を追慕して東国巡幸に出る。まず伊勢に入り東海を巡って10月に[[上総国]]に到着、12月に東国から戻って伊勢に滞在、翌年9月に纒向宮に帰った。そのさらに翌年の即位55年、叔父である[[豊城入彦命|豊城命]]の子の[[彦狭島王]]を東山道十五国の都督とした。しかし任地に向かう途上、春日の穴咋村で亡くなってしまった。そこで翌年に改めて彦狭島王の子の[[御諸別王]]を派遣した。
** 2月、武内宿禰が帰還。[[蝦夷]]の存在と土地の豊かさを報告
** 8月、熊襲が再叛
** 10月、[[ヤマトタケル|小碓尊]](16歳)が熊襲征伐に出発
** 12月、小碓尊が熊襲の川上梟師を暗殺、以後日本武尊と名乗る
* 景行天皇28年
** 7月、大碓皇子に東国遠征を命じるが拒絶、代わりに美濃に封じる
**10月、日本武尊が東国遠征に出発
* 景行天皇41年
** 日本武尊が帰途に[[伊勢国]][[能褒野]]で病没(30歳)
* 景行天皇43年
** 日本武尊が帰国中に[[伊勢国]][[能褒野]]で病没、白鳥陵に葬り武部(たけるべ)を定める
* 景行天皇51年
** 8月、[[成務天皇|稚足彦尊]]を立太子