「ヴァルター・グロピウス」の版間の差分

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[[Image:Bauhaus in Dessau.jpg|thumb|250px|デッサウのバウハウス]]
 
やがてヴァイマルのバウハウスは閉鎖され、[[1925年]]に[[デッサウ]]に移転、デッサウ市立バウハウスとなった。『デッサウの校舎』([[1926年]])はグロピウスの設計によるもの<ref>写真集 『ヴァルター・グロピウス バウハウス1925-26、ファグス工場1911-25』 二川幸夫企画・撮影、デニス・シャープ解説([[GA JAPAN|GAグローバル・アーキテクチュア.70]]、[[A.D.A.EDITA Tokyo]]、1994年)。にも詳しい。</ref> で、著書『国際建築』(1925年、バウハウス叢書第1巻)とともにモダニズム建築の代表作として世界中に知られるようになった。また、デッサウ市の依頼で、郊外に集合住宅([[ジードルング]])を建設した(1926年-1928年)。グロピウスは[[ハンネス・マイヤー]]を後任に指名し、1928年に校長を退いた。[[1923年]]に離婚。[[1930年]]頃にはベルリンの集合住宅建設に当たった。バウハウス閉鎖後、事務所にいた[[山口文象]]とともにドイツを脱出、自身は[[1934年]][[イギリス]]に亡命する。日本生まれの[[カナダ人]]建築家, {{仮リンク|ウェルズ・コーツ<ref>{{Cite journal|date=2019-01-07en|title=Wells Coates|url=https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Wells_Coates&oldid=877301223|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>が設計した[[ロンドン]]にあるモダニズム建築のアパート「{{仮リンク|アイソコン・ビル<ref>{{Cite journal|date=2019-03-09en|title=Isokon Flats|url=https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Isokon_Flats&oldid=886943033|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>」に[[マルセル・ブロイヤー]]らとともに住んでいた。
[[Image:Fagus Gropius Hauptgebaeude 200705 wiki front.jpg|thumb|250px|アールフェルトのファグス靴工場]]