「第二次ポーランド分割」の版間の差分

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== 背景 ==
1717年の[[沈黙のセイム]]以降、ポーランド・リトアニア共和国はロシアの事実上の[[保護国]]の地位に転落し、1772年にはロシア、プロイセン、[[ハプスブルク帝国]]による[[第一次ポーランド分割]]を受けた。1790年、ポーランドはロシアからの圧迫をはねのけ再起を図るために[[ポーランド・プロイセン同盟]]を締結した。プロイセン側は同盟によってポーランドを自らの勢力圏に組み込もうと考えていたのだが、その意図を読みそこない単にプロイセンを自らの後ろ盾として期待したポーランドは、次々と国内改革を進めていった<ref name="Wandycz"/>。1791年、革新的な[[5月3日憲法]]が採択され、[[ブルジョワジー]]に[[参政権]]が与えられ、[[自由拒否権]]が廃止されるなどして、[[レプニン・セイム]]以降の外国による内政干渉を排除した。しかし周辺国はこうした改革がポーランドの復活と強大化につながると恐れた<ref name=hsw/><ref name="lz"/>。しかもこれらの改革はロシアの認可を受けずに勧められたので、ポーランドを属国とみなしていたロシア皇帝[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]の怒りを招き、ポーランドは[[フランス革命]]勢力と強い結びつきを持った[[ジャコビニズム]]に墜ちたと非難された。1792年、ロシアはポーランド・リトアニア共和国に侵攻した<ref name=hsw/><ref name=lz/>。
 
[[ファイル:Wojciech_Kossak_po_bitwie_pod_Zieleńcami.jpg|左|サムネイル|300x300ピクセル|1792年、[[ジェレンツェの戦い]]で撤退するポーランド軍([[ヴォイチェフ・コッサク]]画)]]