「エルンスト・アウグスト (ブラウンシュヴァイク公)」の版間の差分

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ゲオルク・ヴィルヘルムが[[1912年]][[5月20日]]に自動車事故によって死去した後、[[ドイツ皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]はカンバーランド公に対して弔文を送った。この返礼のためにカンバーランド公はエルンスト・アウグストを[[ベルリン]]へ遣ったが、この時彼はヴィルヘルム2世の一人娘であるプロイセン王女[[ヴィクトリア・ルイーゼ・フォン・プロイセン|ヴィクトリア・ルイーゼ]]と逢い、2人の交際が始まった。
 
1913年[[5月24日]]、エルンスト・アウグストとヴィクトリア・ルイーゼは{{仮リンク|マリエンブルク城|label=マリエンブルク城|en|Marienburg Castle (Hanover)}}で結婚式を挙げた。これによってハノーファー家と[[ホーエンツォレルン家]]の間の対立関係に終止符が打たれた。2人の結婚式は[[第一次世界大戦]]前に[[ヨーロッパ]]諸国の君主(イギリス女王[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]やデンマーク王クリスチャン9世の子孫が多かった)が一堂に会する最後の機会となった。具体的にはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と皇后[[アウグステ・ヴィクトリア・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=アウグステンブルク|アウグステ・ヴィクトリア]]、カンバーランド公と妻のデンマーク王女テューラ、イギリス王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]と王妃[[メアリー・オブ・テック|メアリー]]、[[ロシア君主一覧|ロシア皇帝]][[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]と皇后[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ]]らが参列した。また先立って2月に行なわれた婚約発表においてエルンスト・アウグストは皇帝に対して[[忠誠宣誓 (ドイツ)|忠誠宣誓]]を行い、騎兵大尉及び第3騎兵連隊"フォン・ツィーテン"(<span lang="de" xml:lang="de">[[:de:Husaren-Regiment von Zieten (Brandenburgisches) Nr. 3|Brandenburgisches Husarenregiment Nr. 3 "von Zieten"]]</span>)の中隊指揮官に任じられた。なおこの連隊はかつてエルンスト・アウグストの祖父ゲオルク5世や曽祖父[[エルンスト・アウグスト (ハノーファー王)|エルンスト・アウグスト]]が大佐として隊長を務めていた。
 
1913年[[10月27日]]、カンバーランド公はブラウンシュヴァイク公位に対する継承権の放棄を宣言し、翌日[[連邦参議院]]はエルンスト・アウグストにブラウンシュヴァイク公を与えることを決議した。エルンスト・アウグストは同年[[11月1日]]にブラウンシュヴァイク城で即位し、大佐に昇進して第3騎兵連隊"フォン・ツィーテン"の連隊長に任じられた。