「ドミティアヌス」の版間の差分

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[[スエトニウス]]の『[[ローマ皇帝伝]]』には、教養のある優雅な青年として描かれる。兄と異なり、父のユダヤ遠征には参加していない。父が皇帝に登極すると、次第にその行動は大胆さを増した。
 
[[70年]]に[[ドミティア・ロンギナ]]とルキウス・アエリウス・ラミアを強制的に離婚させ、ドミティアと結婚した。ドミティアはネロ配下の将軍であった[[グナエウス・ドミティウス・コルブロ]]の次女であった。この結婚は暴力的にはじまったものの、結果としては双方に利益をもたらした。しかしドミティアヌスは漁色家として知られ、たびたび愛人たちを引き連れていたという説もある。また若い頃には[[ネルウァ]](次のローマ皇帝)らの元老議員連と男色関係にあったという説もある
 
彼は皇太子として神官などの栄誉職をたびたび受けたが、帝国の行政官職にはつかなかった。政治に関わらなかったため、ドミティアヌスを次期皇帝候補と見たものはいなかったが、兄ティトゥスが死ぬと野心をあらわにして帝位についた。
 
治世の末期は暴虐をもって伝えられる。[[元老院 (ローマ)|元老院]]議員や[[エクィテス|騎士階級]]のものをたびたび告発しては死刑にした。貴族階級に公然と敵意を示し、元老院の決議をしばしば無効にした。
 
== 最期 ==