「河埜和正」の版間の差分

{{by|1981年}}に復帰した[[牧野茂 (野球)|牧野茂]]ヘッドコーチから「野手のリーダーになってくれ」と頼まれ、言葉で叱咤激励するタイプではなかったが、ランニングや体操、ノックと、全てで先頭に立った。やがて、若い野手が自宅へ相談に訪ねてくるようになっていき、1980年代に入ってからは「'''キャップ'''」とも呼ばれていた<ref name="baseball.20190307" />。実力と個性を兼ね備えた若手たちを束ねるだけでなく<ref name="baseball.20190307" />、1981年には開幕から1番打者として起用され、[[松本匡史]]、[[篠塚和典|篠塚利夫]]と共にチャンスメーカーとして活躍。1番に立っては盗塁王を争い、2番に入るとリーグ最多の21犠打をマークするなど快進撃を支え、4年ぶりのリーグ優勝に貢献。[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]との[[1981年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも全試合に先発出場し、21打数9安打3打点を記録するなど日本一の大きな原動力となり、シリーズの優秀選手賞を獲得。{{by|1982年}}は松本が1番に定着したこともあって自己最多の32犠打を記録するなど攻守で若いチームを引っ張り、そして支え続けた<ref name="baseball.20190307" />。右翼からの送球の中継に入ることもあったほどの俊足と強肩に加え、バレーボール時代に鍛えた上下左右への瞬間的な動きは圧巻で、ライナーに反応してのジャンピングキャッチは秀逸であった<ref name="baseball.20190307" />。
 
遊撃守備の名手で「守備では人に負けたくない」と言っていた河埜であったが<ref name="baseball.20190307" />、{{by|1985年}}[[4月16日]]の[[阪神タイガース|阪神]]戦([[阪神甲子園球場|甲子園]])の4回裏の守備で、[[佐野仙好]]の放ったなんでもないショートフライをグラブに当てて落球。阪神はこの失策を契機にこの回一挙7得点を挙げて逆転勝利すると<ref name="zakzak.baseball/20091014" />、[[4月17日|翌17日]]の[[バックスクリーン3連発]]と合わせてチームが勢いづき、21年ぶりの優勝に繋がった。河埜はその後も、普段からは考えられないような凡ミスを犯すなど、落球の精神的後遺症といわれるほど失策が続く。[[4月28日|28日]]のヤクルト戦([[明治神宮野球場|神宮]])の初回に[[八重樫幸雄]]の飛球を再度落球し、逆転のタイムリーエラーを犯した河埜はレギュラーを獲得して以来、怪我以外では一度もなかった二軍降格も経験。懲罰というより、精神的にまいっている河埜をリフレッシュさせるためであったが、名手とまで言われた33歳のベテランはもう立ち直る気配すらなかった<ref name="sponichi.baseball/20100401" />。[[5月22日]]の[[イースタン・リーグ]]・[[千葉ロッテマリーンズ (ファーム)|ロッテ]]戦(川崎)で登録抹消以来初めてスタメン出場したが、2失策を記録。平凡なゴロをポロリとやり、一塁への悪送球で相手に得点まで与えてしまった。打つ方でも1二塁打はあったが、2三振に2併殺打と一軍レギュラーの面影は感じられなかった。河埜が落球で登録抹消されたのと入れ替わりに昇格したのが、3年目でまだ21歳の[[川相昌弘]]であった。[[岡崎郁]]にポジションを譲り、同年オフの契約交渉では2660万円から20%ダウンの2130万円での契約を言い渡され、ぐうの音も出ずに印鑑を押した。ダウン額は530万円で、河埜は「落球1つで265万円か…」と苦笑いした<ref name="zakzak.baseball/20091014" />。後に守備のスランプは克服したが、打撃の衰えもあって{{by|1986年}}は僅か18試合出場で、代打だけでなく二塁手や三塁手までやらされた。同年引退。
 
巨人では、[[坂本勇人]]<ref>入団当初の背番号は、河埜と同じ61。</ref>に更新されるまで球団最多だった遊撃手出場記録(1370試合)を持っている。