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自白をめぐる謎
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* 事件から6年後の[[1954年]](昭和29年)、<!--[[茨城県]]内で青酸を使用した[[大量殺人]]事件-->[[茨城・徳宿村精米業一家殺害事件|茨城県内で青酸を使用した大量殺人事件]]が発生した。この手口が[[保健所]]を名乗り毒物を飲ませるという帝銀事件と酷似したものだったことから[[弁護人]]が調査の為に現地入りしたが、逮捕された[[容疑者]]が[[服毒]]自殺してしまったため調査も進展しなかった。
 
出射1986<ref name="出射1986"/>
<ref name="出射1986">出射義夫(いでい・よしお1908年-1984年)『検事の控室』(中公文庫、1986年)</ref>
 
== 自白をめぐる謎 ==
検事の高木一による取り調べを受けた平沢貞通は、当初、帝銀事件および2つの未遂事件について自分が犯人であることを否認した。が、1948年(昭和23年)9月23日から自供を始め、自分の犯行だと認めた。10月8日と10月9日の両日、高木の上司であった検事の出射義夫が取り調べを行い、調書を取った。
後に、平沢の弁護団は、高木による取り調べは拷問に近いもので、平沢の自白は強要ないし誘導されたもので証拠能力はなく、出射義夫による検面調書(検察官面前調書。検察官の目の前で被疑者がサインをした供述調書で)は捏造されたものだ、と主張したが、裁判所はこれらを棄却した<ref>「東京高等裁判所昭和31年(お)13号決定」</ref>。
*1948年(昭和23年)8月26日:検事の高木一による取り調べが開始。
*9月23日:高木は、未遂事件の犯人の顔を見た警察官Iに平沢の顔を見せる。Iは「間違いありませぬ」と高木に耳打ちした。その後、平沢は少しずつ犯行の自白を開始。
*9月27日:新聞各紙、平沢ついに自供、という号外を出す。
ニュースを知った練達の裁判官たちは異口同音に「高木君が自白させたのか。それならまちがいない。彼は決して無理な調べをする男じゃないからなあ」と述べた(出射1986<ref name="出射1986"/>, pp.254-255)。<br>
その後、平沢に対して、UPI通信社のベテラン特派員であるアーネスト・ホーブレクトが、同僚のイアン・ムツとともに約1時間にわたる独占インタビューを行う。平沢が警察から手ひどい扱いを受けた徴候は認められず、平沢の手つきはしっかりしていた。(平沢は拘留中の自殺未遂で自分の手を傷つけていた)。平沢は英語で「警察は自分を礼儀正しく扱い、自白を引き出そうとして拷問的手段を用いるようなこともなかった」と強調し、自分を取り調べた検事の高木一を「ハイエストクラス・ジェントルマン」と賞賛した。米国人記者が見た平沢は「取調べを受けている係官たちとは、きわめて友好的な関係にあるように思われた」。ホーブレクトによる記事は「ニホンタイムス」紙(現「ジャパンタイムズ」)の一面を飾った(トリプレット1987 <ref name="トリプレット1987"/> p.50-p.53)。
*10月8日:平沢の身柄を小菅の拘置所へ移管。
*10月8日と翌10月9日、高木一の上司である出射義夫が小菅の拘置所に赴き、最終の検事調書をとる。出射義夫は熱心なクリスチャンで、戦時中は聴訴室を開設して民衆の直訴や相談を受け付けるなどリベラルを貫いた法曹であった。出射は、第一審の公判中に書いた「帝銀事件の問題点」(出射1986<ref name="出射1986"/>, pp.220-235)という文章のなかで次のように述べている。
*:その年の十月中旬(正しくは上旬。出射の記憶違い)、私は平沢を逮捕して以来の高木検事の取調べをもう一度白紙の立場から検討するつもりで、小菅刑務所に出かけて行った。(中略)
「高木君は無理な調べをしたかね」
「高木さんは紳士です。私の友達です。留置中に進駐軍の人が来て、調べに無理はないかと言ったので、高木さんはゼントルマンだと言ってやりました」(中略)
まだ電燈をともすほどではなかったが、調書を取り終わって、平沢貞通と達筆に署名した頃には、秋の夕暮の気配が社会から隔離されているこの部屋にも忍び入って、私の前に腰かけている一個の人間に対し無限の哀愁の情を唆るのである。(中略)
私が十月という秋の感傷にふけっているのに、平沢は実に何ごともなかったかのごとく、またこれから何ごとも起こらないかのごとく平然としているのである。彼は犯した罪業に恐れ戦くか、または冤罪であれば七転八倒の思いがあってしかるべきであるのに、何らの感動を示さないのである。実に不思議な男である。
 
敬虔なキリスト教徒である出射は、この文章の後半で、神ならぬ法曹が目の前の人間が犯人か冤罪かを見極める本質的な難しさを述べたうえで、「私が問題にしたいのは、人を裁くことがいかにむずかしい仕事であるかということである」(出射1986<ref name="出射1986"/>, p.235)「判決はしょせんは人間のわざなのである」(同前)と正直に語っている。
 
*10月12日:平沢、起訴される。
平沢の弁護人で弁護士の山田義夫は、平沢が小菅拘置所に移管されて1週間目の平沢の様子を「上告趣意書」で次のように述べた<ref>https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/6t5h7p00000gn1xj-att/6t5h7p000032n36y.pdf p.25より引用。 2021年6月16日閲覧</ref>
*:小菅入りをして一週間目に平沢は面会に行った私に、最初は「私は犯人でありません」と言った。「それにしても細かい事を答えるぢやないか」という私に答えて、「教えられれば何でも答えられます」と言った。次いで「しかし私は今は結構たのしいのですよ。夜になると仏様が毎晩来て歌の遊びをしているのです。私はもう現し身でなくて仏身なのです。だからたのまれれば何にでもなりますよ、帝銀犯人にでも何にでもなりますよ」と言った。その瞬間たちまち彼は犯人になったらしい。眼を光らせて「私は帝銀犯人だ」と言った。「さっきの話と大分ちがうようだが」と言う私に、「いいえ私がやりました、荏原も椎名町もやったんです」と断言した。その怪しい無気味な彼の目付きから、私は彼は狂っていると直観した。こんな風じゃ何を聞いても駄目だと、何かまだ聞こうとする高橋弁護人を押し止めて、今少し落付かせよと言って引揚げてしまった。
*12月10日:東京地裁で第1回公判。平沢は自白を撤回し、帝銀事件および2件の未遂事件について無実を主張。
以後、平沢は獄死するまで自身の無実を主張した。
 
 
== 事件を題材にした作品 ==