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'''星野 一義'''(ほしの かずよし、[[1947年]][[7月1日]] - )は、元レーシングドライバー。現在は株式会社[[ホシノインパル]]代表取締役社長。[[静岡県]][[安倍郡]][[玉川村 (静岡県)|玉川村]](現・[[静岡市]][[葵区]])出身。血液型:A型。現役時代は「'''日本一速い男'''」と呼ばれた{{Sfn|Strada|2016}}
 
レーシングドライバーの[[星野一樹]]は長男。
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生家は生菓子の製造・販売業を営んでいて、比較的裕福だったという。野球少年だった星野は、父・又平が道楽で何台も自動車を所有していたこともあり、乗り物好きでもあった。中学生の時には無免許にも関わらず、父から[[オートバイ]]を買ってもらい、それを乗り回したり改造したりしていたという{{Efn|免許がなく、公道を走れない事もあり、リヤカーに[[モトクロッサー]]を積んでコースと家を行き来している姿を廃品回収を手伝う勤労少年だと思われ、通りすがりのおばさんに誉められたという逸話も残っている。}}。また、[[オートバイ (雑誌)|オートバイ]]や[[モーターサイクリスト]]などの[[オートバイ雑誌|バイク雑誌]]を読み漁っては、[[マン島TTレース]]や[[ロードレース世界選手権]](WGP)に参戦していた[[北野元]]や[[高橋国光]]が駆る[[ホンダ・レーシング|ホンダ]]のマシンに思いを馳せていた<ref name=":0">[http://www.as-web.jp/supergt/96108?all 星野一義の夢、かなう。ホンダRC166で鈴鹿をデモラン「本当にすごかった!」] AUTO SPORT Web 2017年3月4日</ref>。
 
東海大学第一高等学校(現・[[東海大学付属静岡翔洋高等学校・中等部|東海大学付属翔洋高等学校]])を1年生の1学期が終わったところで中退すると、しばらくは静岡市内のオートバイ販売店で働くが、程なく当時東海大学に通っていた兄・幸雄を頼って神奈川に移り、[[川崎重工業モーターサイクル&エンジンカンパニー|カワサキ]]ワークスライダーだった[[安良岡健]]に弟子入りを志願。安良岡の同僚だった[[三橋実]]が率いるカワサキ系[[モトクロス]]チーム「カワサキ・コンバット」に入る。この頃、後に一緒にホシノインパルを立ち上げることになる金子豊{{Efn|金子もカワサキ系モトクロスライダーだった}}と出会っている。[[1967年]]に由起子夫人{{Efn|金子豊の妹}}と結婚。[[1968年]]には同じカワサキ系ワークスチームの「神戸木の実レーシング」([[片山義美]]が主宰)に移籍して[[全日本モトクロス選手権]]の90 cc・125 cc両クラスでチャンピオンを獲得。タイトル獲得のご褒美として[[日本モーターサイクルスポーツ協会]] (MFJ) からヨーロッパ視察旅行 (マン島) を与えられた。
 
=== 4輪時代 ===
しかしモトクロスの危険度の高さに見合った年収が得られないことに不満を感じ{{Efn|とはいえ公務員の平均年収が100万円に満たなかった時代、星野は年収200万円を超えていたと言われている。}}、一度は[[オートレース]]への転向を考えた{{Efn|あるオートレーサーがインタビューで年収1,000万と語っていたため。現在でもオートレーサー年収は、超一流クラスのGPレーサー以外では対抗できないと言われている。}}。だが翌[[1969年]]にモトクロス仲間の[[歳森康師]]の推薦で[[日産自動車]]の[[ワークス・チーム|ワークス]]ドライバーのテストを受け合格したのを機に二輪の世界から引退{{Sfn|Strada|2016|pp=10-11}}。東京・大森にあった日産の宣伝部の契約ドライバー(俗に「[[大森ワークス]]」と呼ばれる)となり、主に当時「[[マイナーツーリング]]」と呼ばれた[[富士スピードウェイ]]での[[ツーリングカー]]レースなどで活躍することになる。
 
[[1974年]]には大森ワークスの先輩(リーダー)である[[鈴木誠一 (レーサー)|鈴木誠一]]と折半で、マーチF3のシャシーを購入{{Efn|元は[[桑島正美]]の車両だった{{Sfn|Strada|2016|p=26}}。}}し、FJ1300に参戦{{Sfn|Strada|2016|p=26}}。エンジンは、鈴木たちが設立した東名自動車(現・[[東名パワード]])のチューンしたもの{{Sfn|Strada|2016|p=26}}。星野はFJ1300のデビュー戦で優勝{{Sfn|Strada|2016|p=22}}
 
[[1975年]]に[[ヒーローズレーシング]]に加入。[[全日本F2000選手権]]に参戦し、チャンピオンを獲得する。
 
[[1976年]]に富士スピードウェイで行われた[[1976年F1世界選手権イン・ジャパン|F1世界選手権イン・ジャパン]]に、[[ヒーローズレーシング]]からスポット参戦。旧型のマシン([[ティレル・007]])を駆り大雨の中一時3位を走行する健闘を見せるが、スペアタイヤが底をつきリタイヤした{{Sfn|Strada|2016|pp=46-47}}(正確にはタイヤ自体は残っていたが、それを装着するホイールの予備がなかった)。以後、[[全日本F2選手権]]から[[全日本F3000選手権]]や[[富士グランチャンピオンレース|富士GCシリーズ]]、[[全日本FP選手権]]、[[全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権|全日本耐久選手権]]、[[全日本ツーリングカー選手権 (1985年-1993年)|全日本ツーリングカー選手権]](JTC) (JTC) においてチャンピオンの常連となり、レースファンから「日本一速い男」と呼ばれるようになる。
 
[[1977年]]、[[1977年日本グランプリ (4輪)|F1日本GP]]に[[コジマエンジニアリング]]KE009にて参戦、11位完走を果たす。
 
[[1978年]]、海外初遠征となるルーアンと[[ドニントン・パーク]]で行われたヨーロッパF2選手権にスポット参戦するが(マシンは[[ノバエンジニアリング|ノバ]]532P・[[BMW]])、2戦ともリタイヤに終わる{{Sfn|Strada|2016|pp=64-65, 68}}
 
[[1980年]]には自らのレース参戦資金を稼ぎ出す目的で、金子豊と共に[[ホシノインパル]]を設立。[[1983年]]には自らのレーシングチームとして「ホシノ・レーシング」を設立して[[全日本F2選手権]]に参戦をする。
 
[[1983年]]にはイギリスのドニントン・パークで行われたヨーロッパF2選手権シリーズ 第8戦にスポット参戦(マシンは[[マーチ・エンジニアリング|マーチ]]832・BMW)、[[ブリヂストン]]勢最上位となる4位入賞{{Sfn|Strada|2016|pp=64-65, 69}}
 
[[1985年]]に富士スピードウェイで行なわれた[[WEC-JAPAN]]では、悪天候によりライバルたちがためらう中を果敢にアタックし優勝{{Sfn|Strada|2016|pp=92-93}}。日本人として初の世界選手権レース制覇勝利となった{{Sfn|Strada|2016|pp=92-93}}
 
[[1987年]]には[[ホンダF1]]のテストドライバーになった他、スポンサー持込などの条件付きでベネトンなどのF1の有力チームのシートに誘われることも多かったというが、「プロのドライバーはお金を貰って走るもの。だからこちらからたとえ1円でも払ってまで乗りたくはなかった。」という考えで、F1のレギュラーシートを得ることはなかった。
 
しかし海外でも活躍し、[[1990年のル・マン24時間レース]]に[[日産・R90CP]]で出場し5位入賞、[[1998年のル・マン24時間レース]]には[[日産・R390]]で出場し、日本人ドライバートリオによる初の3位表彰台に輝いた。他にも[[1992年]]には[[林義正]]・[[水野和敏]]の指揮で[[デイトナ24時間レース]]に[[日産・R91CP]]で出場し、2位を9周引き離して完全優勝するなどの実績を挙げている{{Sfn|Strada|2016|pp=110-113}}。このレースでは他にも[[ファステストラップ]]1分38秒495や、24時間の平均速度181.923 km/hなど、数多くの記録を塗り替えた。
 
1990年代に入ると全日本ツーリングカー選手権や[[全日本GT選手権]]に[[マレリ (企業)|カルソニック]]カラーの[[日産・スカイラインGT-R|スカイラインGT-R]]で参戦し数多くのチャンピオンを獲得、「カルソニックの星野」のイメージが強くなるが、全日本F3000選手権でも活躍をつづけた。
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== 参考文献 ==
*{{Cite magazine|和書|magazine=Strada |year=2016 |publisher=三栄書房 |isbn=9784779631368 |ref={{Sfnref|Strada|2016}}}}
 
== 関連項目 ==