「帝銀事件」の版間の差分

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=== 裁判で無罪を主張 ===
[[File:Hirasawa Sadamichi at the 1st trial.JPG|thumb|帝銀事件一審(東京地裁)第1回公判での平沢]]
1948年12月10日より[[東京地方裁判所|東京地裁]]で開かれた第1回[[公判]]において、平沢は[[自白]]を翻し、[[無罪]]を主張した([[帝銀事件#自白をめぐる謎|#自白をめぐる謎]])
 
[[1950年]](昭和25年)7月24日、東京地裁刑事第9部(1審)で[[死刑]][[判決 (日本法)|判決]](裁判官は[[江里口清雄]]、横地恒夫、石崎四郎)。<br>
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1962年(昭和37年)、作家の[[森川哲郎]]は「平沢貞通氏を救う会」を立ち上げ、平沢の無実を立証するための再審請求、死刑執行の阻止などの活動に取り組んだ。森川は趣意書(1962年6月28日)で「私たちの運動は、平沢貞通氏が白であるとか黒であるとか、個人や局部に限定された単純な運動ではない」「この運動は、自覚した民衆が立ち上がって、権力のおかした一つの誤判事件に抵抗していく過程の中で、民衆の意識の中に、自らの人権を確立し、民主主義を深く把握し成長させていくという意義をもっている」と政治的な意義を強調した<ref>「[https://www.gasho.net/teigin-case/index.htm 帝銀事件ホームページ]」の中の「[https://www.gasho.net/teigin-case/documents/other/shuisho.htm 平沢貞通氏を救う会趣意書 1962年6月28日 森川哲郎事務局長記]」。ちなみに[[北芝健]]『ニッポン犯罪狂時代』 (扶桑社、2009年) によると、「救う会」のある有名な弁護士(原文では実名)はプライベートな場で「(平沢貞通が)白でも黒でもかまわんよ」「'''国家という巨大でまがまがしい存在に対抗するには、この平沢の事件は非常にいいネタ'''なんだ」云々と述べたという。</ref>。平沢の家族は「救う会」の活動とは距離を置いた<ref>平沢の次女は「『平沢貞通を救う会』(自分の実父なので「氏」を抜く)が父を救うなどと言っているため、父がいつまでも本当のことを言わない、そのため家族はいつまでも苦しまねばならない」と不満を述べ、また「救う会」が帝銀偽証事件を起こした時も「自分は黒を白と言ってまで父を助けてもらおうとは思わない」と語った(佐伯省『帝銀事件はこうして終わった―謀略・帝銀事件』、p.50)。ジャーナリストのウイリアム・トリプレットは「'''『救う会』が平沢の娘たちから、沈黙ではなく支持を取りつけることができていたら、『救う会』による平沢釈放の訴えはもっと重みを増していたはずだ'''」と残念がり「彼女たちが実父を支援しようとしなかったのは、西洋人の目にはどう見ても疑わしい行動に映るものだった」と述べる(ウイリアム・トリプレット(著)、西岡公 (訳)『帝銀事件の真実―平沢は真犯人か?』1987年、p.220)。ただし「救う会」の活動は別として、平沢の家族は「救う会」代表の森川哲郎や森川武彦(平沢武彦)とは良好な関係を保った。1996年ごろに撮影された、平沢貞通の長女が森川哲郎に親しげに語りかけるプライベートビデオが残っている(「[https://ghq.club/?p=5651 コラム 帝銀事件とは何だったのか-50 Vol.50 原渕 勝仁さん]」)。また、諸般の事情で縁を切ったとはいえ、平沢を思う家族の気持ちには変わりがなかった。平沢の三女は米国人と結婚し米国に渡ったが、1980年代前半、米国から獄中に父に手紙を寄せ、自分は父のことを思っており元気でいてほしい、自分はアメリカでの生活を満喫している、と伝えてきた。返信用のアドレスは記されていなかった。(『帝銀事件の真実』p.221)</ref>。
 
支援者らは、「平沢の供述は、[[拷問]]に近い[[平塚八兵衛]]の取り調べ<ref name="平塚2004" />と、[[狂犬病]][[予防接種]]の[[副作用]]による[[コルサコフ症候群]]の[[後遺症]]としての[[精神疾患]]([[虚言症]])によるものであり、供述の信憑性に問題がある」「[[大村徳三]]博士の鑑定によれば、死刑判決の決め手となった自白調書3通は、取調べに関与していない[[出射義夫]][[検事]]が白紙に平沢の[[指紋]]を捺させたものである」などと主張して、裁判所に[[再審]]請求を17回、法務省に恩赦願を3回提出したが、その都度、却下された([[帝銀事件#自白をめぐる謎|#自白をめぐる謎]])
 
[[1968年]](昭和43年)に[[再審特例法案]]が国会に提出。この法案は、連合国軍領下の裁判で死刑が確定した死刑囚に再審の道を開くことを目的としたものであったが結果的に廃案。翌年以降、法案提出を契機として[[中央更生保護審査会]]により平沢ら7人の恩赦が審査されたが、拘禁性精神病にかかった受刑者などに[[無期懲役]]への減刑が行われたのみで、平沢のおかれた状況に変化はなかった<ref>「女死刑囚に初恩赦」『朝日新聞』昭和44年(1969年)9月5日朝刊、12版、15面</ref>。