「帝銀事件」の版間の差分

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→‎画家の平沢貞通を逮捕: 山口二郎名刺と小切手の関係者の証言、筆跡鑑定
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* 「犯人適格性」がいろいろあてはまる<ref>平沢の逮捕・送致後の取り調べは、当時37歳の検事・高木一(東大法科卒。捜査本部の藤田次郎刑事部長と東大で同期)が独占的に行った。高木は、現場で犯人が取った行動が容疑者の性格・知識・能力が合致するかどうか「犯人適格」をいろいろ検査した。椎名町支店の犯人は誰か欠けていては困るので全員を集めるとき「'''オール・メンバー・カム・ヒア'''」と言ったが、これは平沢が自宅の朝食で家族を呼び集めるときの口ぐせだった。中井での未遂事件の犯人は企業名「井華」(せいか)を「いか」と誤読していたが平沢も「いか」と誤読した。高木は後年の回想で「これらは一つの例にすぎませんけど、こうしたテストを積み重ねると、犯人の適格性が出てくるんですね」と述べている。出典:野村二郎『法曹あの頃(下)』(日評選書、1981年)p.180-p.181。</ref>。
* 事件直後、逃避行のような行動をしている。平沢は伊豆に「写生旅行」に行ったが、旅館で携帯した小型ラジオでニュースばかり聞いていた<ref>新潮文庫版『[[刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史|刑事一代]]』p.147。なお、平沢の妻は自著『愛憎を越えて―宿命の妻・平沢マサの手記』の中で「帝銀事件以後のこの伊豆行について、当局(警察や検察)では犯罪の逃避と単純に決めてしまつていますが、彼の伊豆で得たこの物静かな手堅い二つの作品(平沢が描いた絵を指す)は何よりも如実に彼の身の潔白を物語つて居ります。作品の巧拙は問題外として、生命と人格とを傾けて描いた画面に虚偽(いつわり)があろうはずはありません。又激情と恐怖の中では、しかも二日という短い時間では到底できない作品です。この静かな画面に向つて一瞬でも彼(平沢)を疑うことが出来るでしようか」と夫を擁護した。後年「平沢貞通氏を救う会」も同様の主張をしている。平塚八兵衛は、もし平沢が犯人なら事件後にあんな素晴らしい絵を描けるはずがない、もし犯人ならもっと絵ににごりがあるはずだ、という見解を「哲学者みてえなこと」「命がけでやってきた捜査をそんなことで簡単に決めつけられちゃあ、話にもならねえ」と一蹴した。出典:新潮文庫版『[[刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史|刑事一代]]』p.151。</ref>。その後、平沢は北海道の小樽に行ったまま、いつまでも東京に戻らなかった。
* 三菱銀行中井支店の未遂事件の犯人が使用した「山口二郎」名刺を印刷した銀座8丁目の露天の印刷業者・Sは、注文者はだいたい平沢と同じような感じのする男であった、と供述した。
* 帝銀事件で強奪された小切手は犯行の翌日、安田銀行板橋支店で現金化されたが、それを取り扱った同支店の係員Hは、小切手で金を取りに来た人物(犯人である可能性が大)の容姿について、顔の上の方は帽子を真深にかぶっていたのでわからないが、鼻から下や声など全体的に見て平沢と似ている、と供述した。またその人物が小切手の裏に書いた住所氏名(後に偽名と判明)の筆跡を専門家が鑑定した結果、慶応大学の伊木鑑定人を除く7名の鑑定人が平沢の筆跡との同一性または酷似性を認めた。
* '''事件直後に被害総額とほぼ同額を預金していたが、その出所を明らかにできなかった'''。
*: 平沢は事件直前まで方々に借金を重ねるなど金銭的に困っていたが、事件直後、東京銀行に「林輝一」という偽名を使って出所不明の大金を預金し、妻にも大金を渡して、自分は東京を離れた。