「交響曲第9番 (ベートーヴェン)」の版間の差分

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{{Portal クラシック音楽}}
'''交響曲第9番''' '''ニ短調''' '''作品125'''(こうきょうきょくだい9ばん ニたんちょう さくひん125、{{Lang-de|'''Sinfonie Nr. 9 d-moll op. 125'''}})は、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]]が[[1824年]]に作曲した[[ソロ (音楽)|独唱]]と[[合唱]]を伴う[[交響曲]]。ベートーヴェンの9番目にして最後の[[交響曲]]である<ref>{{Efn|[[交響曲第10番 (ベートーヴェン)|第10番]]は断片的なスケッチが残されたのみで完成されていない。</ref>}}
 
ベートーヴェン自身はタイトルをつけなかったが、通称として「'''合唱'''」や「'''合唱付き'''」が付されることも多い。また日本では略称として「'''第九'''」(だいく)とも呼ばれ、その[[演奏会]]は年末の[[風物詩]]となっている<ref>[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202012060000815.html 師走の風物詩「1万人の第九」もコロナ禍で様変わり]『[[日刊スポーツ]]』2020年12月6日(2020年12月8日閲覧)</ref>。第4楽章は独唱および合唱を伴って演奏され、歌詞には[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]の詩『歓喜に寄す』が用いられる。第4楽章、その主題は『'''[[歓喜の歌]]'''』としても親しまれている{{Sfn|諸井|p=5}}。原曲の歌詞は[[ドイツ語]]だが、世界中の多くの言語に翻訳されており、その歌詞で歌われることもある。
 
第4楽章の[[歓喜の歌|「歓喜」の主題]]は、[[欧州評議会]]においては[[ヨーロッパ]]全体をたたえる「[[欧州の歌]]」として、[[欧州連合]](EU)においては連合における統一性を象徴するものとして、それぞれ採択されている。このほか、[[コソボ共和国]]の暫定[[国歌]]や、かつての[[ローデシア]]の国歌<ref>[https://web.archive.org/web/20071214092053/http://www.rhodesia.jp/profile.html ローデシアの概要]</ref>としても制定されていた。[[ベルリン国立図書館]]所蔵の自筆譜資料は[[2001年]]に[[国際連合教育科学文化機関]](ユネスコ)の[[ユネスコ記憶遺産]]リストに登録された。初演/初版の版刻に用いられた筆写[[楽譜|スコア]]が[[2003年]]に[[サザビーズ]]で[[競売]]にかけられた際には、「人類最高の芸術作品」と紹介されている<ref>{{Cite news |title=「第九」手書き楽譜を公開 NY、楽聖のコメントも |newspaper=[[共同通信社|共同通信]]([[47NEWS]]) |date=2003-05-10 |url=http://www.47news.jp/CN/200305/CN2003051001000055.html |accessdate=2017-04-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141228094438/http://www.47news.jp/CN/200305/CN2003051001000055.html |archivedate=2014年12月28日 }} ※ 現在は[[インターネットアーカイブ]]内に残存</ref>。
== 概要 ==
[[File:Ninth Symphony original.png|thumb|自筆譜]]
元来、交響曲とは[[ソナタ]]の形式で書かれた[[管弦楽]]のための楽曲で、第1楽章が[[ソナタ形式]]、第2楽章が緩徐楽章、第3楽章が[[メヌエット]]、第4楽章がソナタや[[ロンド形式|ロンド]]という4楽章制の形式が一般的であった。ベートーヴェンは交響曲の第3楽章に[[スケルツォ]]を導入したり、[[交響曲第6番 (ベートーヴェン)|交響曲第6番]]では5楽章制・擬似音による風景描写を試みたりしたが、交響曲第9番では第2楽章をスケルツォとする代わりに第3楽章に[[瞑想]]的で宗教的精神性をもった緩徐楽章を置き、最後の第4楽章に4人の[[独唱]]と[[混声合唱]]を導入した。ゆえに「'''合唱付き'''」('''Choral''')<ref>{{Efn|ドイツ語の原題ではこの曲は Sinfonie mit Schlusschor über Friedrich Schillers Ode "An die Freude" (フリードリヒ・シラーの[[頌歌]]『歓喜に寄す』に基づく終結合唱を伴う交響曲)とされており、ドイツ語では "Chor"(合唱)であり "Choral" ではない。日本で[[コンパクトディスク|CD]]の表記などに一般的に用いられている "Choral" は英語であり、「合唱の」「合唱」という一般的な[[形容詞]]、[[名詞]]だと考えられる。英語の "Choral (Chorale)" には「[[コラール]]」にあるように「[[賛歌]]」「[[賛美歌]]」という意味もあるのだが、ドイツ語においては "Chor" と "Choral" は明瞭に区別されているので、この交響曲のニックネームである "Choral" をコラールに結びつけるのは適当ではない。</ref>}}と呼ばれることもあるが、ドイツ語圏では副題は付けず、単に「交響曲第9番」とされることが多い。第4楽章の旋律は有名な「[[歓喜の歌]](喜びの歌)」で、[[フリードリヒ・フォン・シラー]]の詩『歓喜に寄す』から3分の1程度を抜粋し、一部ベートーヴェンが編集した上で曲をつけたものである。交響曲に[[声楽]]が使用されたのはこの曲が必ずしも初めてではなく、[[ペーター・フォン・ヴィンター]]による『戦争交響曲』などの前例があるものの、真に効果的に使用されたのは初めてである。
 
なお、ベートーヴェン以降も声楽付き交響曲は珍しい存在であり続けた。[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]や[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]、[[フランツ・リスト|リスト]]などが交響曲で声楽を使用しているが、声楽付き交響曲が一般的になるのは第九から70年後、[[グスタフ・マーラー|マーラー]]の『[[交響曲第2番 (マーラー)|交響曲第2番「復活」]]』が作曲された頃からであった。
 
=== 演奏時間 ===
[[1824年]]5月7日の[[ウィーン]]での初演<ref>【ニュースの門】淵上えり子:第九 初めは「失敗作」!?『[[読売新聞]]』朝刊2020年11月19日(解説面)</ref>の演奏時間については明確な数字が記された書類は無いが、[[1825年]][[3月21日]]に英国[[ロンドン]]で『第九』を初演した[[ジョージ・スマート]]がベートーヴェンと会見した際の質疑応答の断片が『[[ベートーヴェンの会話帳]]』に残っており、63分という数字がロンドン初演時の演奏時間とされている<ref>{{Efn|初演を報じるイギリスの新聞では「ちょうど1時間と5分」という数字も伝えられている。会話帳にはこの次に「45分」という記述もある(第2楽章から第4楽章まで何分ですかという問いが消失した可能性がある。)が、あまりに短すぎるということで『第九』全曲の演奏時間とは見なされていない。また第1楽章の[[テンポ]]も「4分音符=88」が採用されているが、自筆スコアでは「メルツェル=108から120」という数字が書かれており、実行すれば3分以上の短縮になる。これも不自然に速過ぎ、ベートーヴェンの勘違いではないかと考えられている。</ref>}}
 
[[リヒャルト・シュトラウス]]は[[ジークフリート・ワーグナー]]の追悼演奏会で45分で演奏したという逸話があるが<ref>[[大町陽一郎]]「指揮者としてのリヒャルト・シュトラウス」日本リヒャルト・シュトラウス協会編『リヒャルト・シュトラウスの「実像」』([[音楽之友社]]、2000年)115頁</ref>、真偽のほどは定かではない。
 
[[SPレコード]]時代である[[フェリックス・ヴァインガルトナー]]の1935年の録音は62分程度、[[アルトゥーロ・トスカニーニ]]の1939年の録音は60分強だが、LP時代に入って話題になった[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]の[[バイロイト音楽祭]]での録音は75分弱である。[[LPレコード]]時代でも[[ルネ・レイボヴィッツ]]、[[ヘルマン・シェルヘン]]らはベートーヴェン本人が記したテンポこそ絶対の理想であるとの信念を崩さず、それに忠実な演奏を目指していたが、それらの解釈は当時の指揮者界の中では異端であり、全体の時間は1980年代頃までの伝統的なモダン楽器による演奏で70分前後が主流であった。ベートーヴェンの交響曲中で最長である。80分に届こうとするもの<ref>{{Efn|[[カール・ベーム]]が最晩年の1980年に録音した演奏は18:34/13:22/18:15/28:35で78分を超える。</ref>}}まであった。また21世紀になってもこのような雄大なテンポでの演奏を行う指揮者もいる<ref>[https://archive.is/RxSDw PRESTO CLASSICAL] - [[クリスティアン・ティーレマン]]指揮[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]</ref>。
 
「通常の[[コンパクトディスク|CD]]の記録時間が約74分であることは、この曲が1枚のCDに収まるようにとの配慮の下で決められた」とする説がある<ref>{{Efn|[[1979年]](昭和54年)からCD の開発に当たった[[フィリップス]]と[[ソニー]]はディスクの直径を11.5[[センチメートル|cm]]とするか12cmとするかで何度も議論を重ねており、大きさを基準に考えるフィリップスに対し、記録時間を優先したいソニーで話し合いは難航していた。11.5cmであることの様々な利便性は明らかであったが、当時のソニー副社長で[[バリトン]]歌手の[[大賀典雄]]は、親交のあったカラヤンに、11.5cm(60分)と12cm(74分)との二つの規格で二者択一の段階に来ていることを話すと、カラヤンは「ベートーベンの交響曲第九番が1枚に収まったほうがいい」と提言した。カラヤンの『第九』は約63分~69分であり、ほとんどの指揮者による演奏時間は60分を超えているからだ。この「カラヤン裁定」を要因として、最終的に12cmに決定したというもの。</ref>}}
 
CD時代に入って、それまで重要視されて来なかった楽譜(普及版)のテンポ指示を遵守して演奏された『第九』が複数出現した。まず、[[デイヴィッド・ジンマン]]が1999年にベーレンライター版によるCD初録音を行った際は、トラック1-2-3-4-6の順で計算すると58分45秒になる<ref>{{Cite web |url = https://web.archive.org/web/20191115144244/https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51ecqaha7PL._SX450_.jpg|title = Symphony No.9 |publisher = images-na.ssl-images-amazon.com |date = |accessdate = 2019-11-15 }}</ref>。{{仮リンク|ベンジャミン・ザンダー|en|Benjamin Zander}}指揮{{仮リンク|ボストン・フィルハーモニー管弦楽団|en|Boston Philharmonic}}による演奏は全曲で57分51秒であった。同じくザンダーの指揮によって[[フィルハーモニア管弦楽団]]を振った演奏は全曲で58分37秒<ref>{{Cite web |url = https://web.archive.org/web/20191115070324/https://www.gramophone.co.uk/review/beethoven-symphony-no-9-zander|title = BEETHOVEN Symphony No 9 (Zander) |publisher = www.gramophone.co.uk |date = |accessdate = 2019-11-15}}</ref>、[[フランソワ=グザヴィエ・ロト]]と[[BBCウェールズ交響楽団]]とのライブ演奏<ref>{{Cite web |url = https://web.archive.org/web/20191115070428/https://www.allmusic.com/album/release/beethoven-symphony-no-9-choral-mr0002739122|title = Beethoven: Symphony No. 9 "Choral" |publisher = www.allmusic.com |date = |accessdate = 2019-11-15}}</ref>においても58分44秒で、双方ともモダン楽器を使用したにもかかわらず1時間を切った。マーラー編曲版でも59分44秒で終わる快速の演奏がある<ref>[[クリスチャン・ヤルヴィ]]指揮[[ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団]] King International KKC-5119 (59分44秒)</ref>が、マーラー本人の演奏による第9の演奏時間は不明である。
 
== 初演 ==
初演に携わった管弦楽・合唱のメンバーはいずれもアマチュア混成で、管楽器は[[倍管|倍の編成]](木管のみか金管を含むか諸説ある)、弦楽器奏者も50人ほどで、管弦楽だけで80 - 90名の大編成だった。合唱はパート譜が40部作成されたことが判っており、原典版を編集した[[ジョナサン・デル・マー]]は「合唱団は40人」としているが、劇場付きの合唱団が少年・男声合唱団総勢66名という記述が会話帳にあり、楽譜1冊を2人で見たとすれば「80人」となる<ref>{{Efn|楽譜を複数人で視唱するやり方は楽譜複製を筆写に拠っていた18世紀中は珍しくなかったようで、その様子を描いた画も残っている。これは[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の[[マタイ受難曲]]における「合唱は1パート1人ずつ」という学説の反証の一つともなっている。</ref>}}
 
== 演奏史 ==
当時のウィーンでは[[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]]の[[オペラ]]が流行していたため、ベートーヴェンは当初、ウィーンの聴衆には自分の音楽がそぐわないと判断し、[[ベルリン]]での初演を希望していた。だが、ベートーヴェンを支援していたリヒノフスキー伯爵らの計らいでウィーンでの初演を求める嘆願書が作られ、ベートーヴェンはベルリン初演を思い止まった。
 
第九の初演については多くの逸話がある。参加者の証言によると、第九の初演は[[リハーサル]]不足(2回の完全なリハーサルしかなかった)であり、かなり不完全だったという示唆がある。[[ソプラノ]]ソロの[[ヘンリエッテ・ゾンターク|ゾンターク]]は18歳、アルトソロのウンガーは21歳という若さに加え、男声ソロ2名は初演直前に変更になってしまい(バリトンソロのザイペルトが譜面を受け取ったのは、初演3日前とされる)、ソロパートはかなりの不安を抱えたまま、初演を迎えている。さらに、総練習の回数が2回と少なく、管楽器のエキストラまで揃ったのが初演前日とスケジュール上ギリギリであったこと、演奏者にはアマチュアが多く加わっていたこと(長年の戦争でプロの演奏家は人手不足だった。例えば初演の企画段階でも「ウィーンにはコンサート・ピアニストが居ない」と語られている)、加えて合奏の脱落や崩壊を防ぐためピアノが参加して合奏をリードしていた<ref>{{Efn|これはベートーヴェンに限った問題ではなく、クレメンティも自作の交響曲の際にピアノを用い、ピアノの音とオーケストラの音が度々ずれると記録が残されている。出典:レオン・プランティンガ『クレメンティ 生涯と音楽』(音楽之友社)ISBN 978-4276222175。</ref>}}
 
一方で、初演は大成功を収めた。『テアター・ツァイトゥング』紙に「大衆は音楽の英雄を最高の敬意と同情をもって受け取り、彼の素晴らしく巨大な作品に最も熱心に耳を傾け、歓喜に満ちた拍手を送り、しばしばセクションの間、そしてセクションの最後には何度も繰り返した」という評論家の記載がある 。ベートーヴェンは当時既に聴力を失っていたため、ウムラウフが正[[指揮者]]として、ベートーヴェンは各楽章のテンポを指示する役目で指揮台に上がった。ベートーヴェン自身は初演は失敗だったと思い、演奏後も聴衆の方を向くことができず、また拍手も聞こえなかったため、聴衆の喝采に気がつかなかった。見かねたアルト歌手のカロリーネ・ウンガーがベートーヴェンの手を取って聴衆の方を向かせ、初めて拍手を見ることができた、という逸話がある。観衆が熱狂し、[[アンコール]]では2度も第2楽章が演奏され、3度目のアンコールを行おうとして兵に止められたという話が残っている。
彼は「ベートーヴェンの時代は楽器が未発達」であり、「作曲者は不本意ながら頭に描いたメロディ全てをオーケストラに演奏させることができなかった」と考えたのである。そして「もしベートーヴェンが、現代の発達した楽器を目の当たりにしたら、このように楽譜を加筆・改訂するだろう」という前提に立って、管楽器の補強などを楽譜に書き込んだ。
 
徹底的なリハーサルの効果もあり、この演奏会は公開練習のときから満員となり、本番も大成功に終わった。もちろん、年金基金も記録的な収入だった。これ以降、『第九』は「傑作」という評価を得るようになったのである。<ref>{{Efn|ワーグナー改変版は販売されなかったが、ピアノ編曲版が販売された([https://archive.is/CljeC 外部リンク])}}</ref>
 
=== 日本初演 ===
[[1940年]](昭和15年)12月31日午後10時30分、[[紀元二千六百年記念行事]]の一環として、[[ヨーゼフ・ローゼンシュトック]]が新交響楽団(現在の[[NHK交響楽団]])を指揮して『第九』の[[ラジオ]]生放送を行った。これを企画したのは当時、[[日本放送協会|日本放送協会(NHK)]]の洋楽課員だった[[三宅善三]]である。彼は、その理由について「ドイツでは習慣として[[大晦日]]に第九を演奏し、演奏終了と共に新年を迎える」としている。実際に、当時から現在まで年末に『第九』を演奏しているドイツのオーケストラとして、著名なところでは[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]が挙げられる。厳密にいうと、それを模倣するオーケストラがいくつかあるものの、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による大晦日の『第九』演奏は、深夜に行われるものではない。よって、そういった慣習があるとは言えず、何らかの意思疎通や通訳の誤りが原因の勘違いをしたのではないのかと思われる。
 
日本で年末に『第九』が頻繁に演奏されるようになった背景には、[[第二次世界大戦]]後間もない[[1940年代]]後半、オーケストラ演奏の収入が少なく、楽団員が年末年始の生活に困る状況を改善するため、合唱団も含めて演奏に参加する楽団員が多く、しかも当時([[クラシック音楽]]の演奏の中では)「必ず(客が)入る曲目」であった『第九』を日本交響楽団(現在の[[NHK交響楽団]])が年末に演奏するようになり、それが定例となったことが発端とされる。既に大晦日に生放送をする慣習が定着していたから、年末の定期演奏会で取り上げても何ら違和感が無かったことも一因として挙げられよう<ref>{{Efn|[[黒柳徹子]]は父の[[黒柳守綱]](新交響楽団(現在のNHK交響楽団)の元[[コンサートマスター]])から聞いた話として、学生合唱団を加えた演奏を行うことにより、合唱団員の家族などがチケットを購入することで年末の演奏会の入場者数を増やして、楽団員のもち代を稼ぐというアイディアだったと説明している。「TOKYO発 年末第九再発見-演奏年200回超 誕生を探る」『[[東京新聞]]』2007年12月25日朝刊([[中日新聞]]東京本社発行)。</ref>}}。1956年(昭和31年)に[[群馬交響楽団]]が行った群馬での第九演奏会の成功が全国に広まったのをきっかけに、国内の年末の『第九』の演奏は急激に増え、現在に至っている<ref>NHK [[プロジェクトX〜挑戦者たち〜]] 第127回 「第九への果てなき道」(群馬交響楽団 10月14日)</ref>。
 
=== バイロイト音楽祭と第九 ===
 
=== フルトヴェングラーと第九 ===
指揮者[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー|フルトヴェングラー]]は第二次世界大戦前、1911年から1940年まで既に61回『第九』を指揮したとされる。その解釈は荘厳、深遠でありながら感情に流され過ぎず、友人でもあった音楽学者[[ハインリヒ・シェンカー]]の分析からも影響を受けている。第4楽章330小節の[[フェルマータ]]を非常に長く伸ばし同時間の休止を設けるというワーグナー由来の特徴も見られ、自身の著作でも第1楽章の開始を宇宙の創世と捉えるなど後の世代にも影響を与えたが、後の世代の演奏は[[アルトゥーロ・トスカニーニ|トスカニーニ]]流の明晰な演奏が主流となり、[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]開始を思わせるフルトヴェングラーの解釈は、現在ではベートーヴェンにしてはあまりに後期ロマン主義的、神秘主義的に過ぎる、とされることが多い。<ref>{{Efn|トスカニーニとフルトヴェングラーの芸術性の違いを示す例として、音楽著述家のハンス・ケラーはドキュメンタリー『アート・オブ・コンダクティング』で、トスカニーニ指揮の『第九』演奏会で客席に居たフルトヴェングラーが第1楽章冒頭の弦楽器による6連符刻みを聴くなり「単なる時間刻み人だ! ("nur einen Zeitschläger!" ) 」と言って退席したエピソードを示し、不明瞭に演奏されたフルトヴェングラー指揮の冒頭部分と比較している。</ref><br/>第二次世界大戦中ドイツに留まり活動していたフルトヴェングラーは[[1942年]]4月19日、[[ナチス・ドイツ]]総統[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の誕生日前日に『第九』を指揮し、[[ヨーゼフ・ゲッベルス|ゲッベルス]]と握手する姿が映画に撮影されるなど政治宣伝に利用され、戦後は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]からナチスとの関わりを責められ一時活動の機会を失うことになった<ref>経緯は中川右介・著「至高の十大指揮者(2020年角川文庫)」などに詳しい。フルトヴェングラー自身は最後まで入党せず、1939年以来ヒトラーの誕生日が近づくとウィーンとベルリンから離れ、指揮を執る演奏会に誕生日祝賀の意味が伴わないよう暗に抵抗していたのだが、42年にはゲッベルスが当初入っていた演奏会の予定を無理矢理変えさせ、忌避しようの無い状況にフルトヴェングラーを追い込んだのである。</ref>}}
 
第二次世界大戦中ドイツに留まり活動していたフルトヴェングラーは[[1942年]]4月19日、[[ナチス・ドイツ]]総統[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の誕生日前日に『第九』を指揮し、[[ヨーゼフ・ゲッベルス|ゲッベルス]]と握手する姿が映画に撮影されるなど政治宣伝に利用され、戦後は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]からナチスとの関わりを責められ一時活動の機会を失うことになった{{Efn|経緯は中川右介・著「至高の十大指揮者(2020年角川文庫)」などに詳しい。フルトヴェングラー自身は最後まで入党せず、1939年以来ヒトラーの誕生日が近づくとウィーンとベルリンから離れ、指揮を執る演奏会に誕生日祝賀の意味が伴わないよう暗に抵抗していたのだが、42年にはゲッベルスが当初入っていた演奏会の予定を無理矢理変えさせ、忌避しようの無い状況にフルトヴェングラーを追い込んだのである。}}。
[[1951年]]7月末、終戦後初の[[バイロイト音楽祭]]でフルトヴェングラーは『第九』を指揮し、再開を祝した。他の演目を録音しに訪れていたレコード会社デッカのスタッフも出演者たちも、この第九に常軌を逸した緊張感があったと語っている。しかし録音そのものは1951年当時の技術水準を考慮しても鮮明さを欠いたものであった。元々この演奏のレコード化は正規のものではなく、発売元となった[[EMI]]のプロデューサー[[ウォルター・レッグ]]はフルトヴェングラーから録音を拒否されていた(表向きは「[[バイロイト祝祭劇場|バイロイト]]の音響が録音向きではないから」としているが、当時EMIはフルトヴェングラーが忌み嫌っていたカラヤンと友好関係にあり、フルトヴェングラーの信頼を失いつつあった)。そのためフルトヴェングラーの生前には発売されなかった上、[[録音テープ]]が廃棄されかかったという逸話もある。<ref>音質の弱みに関しては「視界に入ると気が散る」と言って[[マイクロフォン]]を撤去させる事もあったフルトヴェングラーにも一因はあろう(デッカのジョン・カルショウによる)。レッグが妻も出演したこの演奏を名演と認めていなかったのは明らかで、指揮者の妻エリザベート夫人の証言によれば、この日の終演後に[[楽屋]]を訪れ感想を求められたレッグは「今日の出来は今一つ。昔はもっと良かった」と言ってフルトヴェングラーを落ち込ませたという。[[モノラル]]LP盤からCD化を行ったグランドスラム盤解説に詳訳あり。</ref>
 
[[1951年]]7月末、終戦後初の[[バイロイト音楽祭]]でフルトヴェングラーは『第九』を指揮し、再開を祝した。他の演目を録音しに訪れていたレコード会社デッカのスタッフも出演者たちも、この第九に常軌を逸した緊張感があったと語っている。しかし録音そのものは1951年当時の技術水準を考慮しても鮮明さを欠いたものであった。元々この演奏のレコード化は正規のものではなく、発売元となった[[EMI]]のプロデューサー[[ウォルター・レッグ]]はフルトヴェングラーから録音を拒否されていた(表向きは「[[バイロイト祝祭劇場|バイロイト]]の音響が録音向きではないから」としているが、当時EMIはフルトヴェングラーが忌み嫌っていたカラヤンと友好関係にあり、フルトヴェングラーの信頼を失いつつあった)。そのためフルトヴェングラーの生前には発売されなかった上、[[録音テープ]]が廃棄されかかったという逸話もある。<ref>{{Efn|音質の弱みに関しては「視界に入ると気が散る」と言って[[マイクロフォン]]を撤去させる事もあったフルトヴェングラーにも一因はあろう(デッカのジョン・カルショウによる)。レッグが妻も出演したこの演奏を名演と認めていなかったのは明らかで、指揮者の妻エリザベート夫人の証言によれば、この日の終演後に[[楽屋]]を訪れ感想を求められたレッグは「今日の出来は今一つ。昔はもっと良かった」と言ってフルトヴェングラーを落ち込ませたという。[[モノラル]]LP盤からCD化を行ったグランドスラム盤解説に詳訳あり。</ref>}}。
しかしフルトヴェングラーの死後にEMIからレコードとして発売されると、日本の評論家達は大絶賛し、今でも「第九のベスト演奏」に挙げられることが多い。録音に問題ありという認識の裏返しでEMIから音質の改善を謳ったCDが何種類も発売されており、初期LPから復刻したCDも複数の企画がある。<br/>
 
近年もう一種類の録音([[バイエルン放送]]の放送録音)がCD化(「オルフェオ」レーベル)され、本番なのかリハーサルテープなのかの諸説があるが、「こちらこそ真のバイロイトの第九」と賞賛する声もある<ref>レコード芸術誌に載った中村政行の報告によると、バイエルン放送のテープはEMI盤でも音質変化の認められる2か所で編集が施されているだけでなく、「断片的であっても放送利用は禁止」という指示が添えられているが、今日では経緯や理由を知る関係者はなく、解明も進んでいない。</ref>。
しかしフルトヴェングラーの死後にEMIからレコードとして発売されると、日本の評論家達は大絶賛し、今でも「第九のベスト演奏」に挙げられることが多い。録音に問題ありという認識の裏返しでEMIから音質の改善を謳ったCDが何種類も発売されており、初期LPから復刻したCDも複数の企画がある。<br/>
 
近年もう一種類の録音([[バイエルン放送]]の放送録音)がCD化(「オルフェオ」レーベル)され、本番なのかリハーサルテープなのかの諸説があるが、「こちらこそ真のバイロイトの第九」と賞賛する声もある<ref>{{Efn|レコード芸術誌に載った中村政行の報告によると、バイエルン放送のテープはEMI盤でも音質変化の認められる2か所で編集が施されているだけでなく、「断片的であっても放送利用は禁止」という指示が添えられているが、今日では経緯や理由を知る関係者はなく、解明も進んでいない。</ref>}}
 
=== 戦後復興と第九 ===
 
== 版の問題 ==
この作品は、その斬新な作風から解釈や[[管弦楽法|オーケストレーション]]について多くの問題を含んでおり、19世紀後半の[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]、[[グスタフ・マーラー|マーラー]]、[[フェリックス・ワインガルトナー|ワインガルトナー]]<ref>{{Efn|旋律線強化の目的で行われた各種編曲の実態は『ある指揮者の提言』で、マーラー版については『マーラーの交響曲』で詳しく紹介されている。長年マーラー自身の書き込みがある楽譜が使われて来たが、近年は校訂版もマーラーが編曲したベートーヴェンの交響曲3,5,7,9番や序曲『レオノーレ』2番、3番のJosef Weinberger版(David Pickett校訂、貸し譜のみ)が利用可能で、[[2006年]]に[[クリスチャン・ヤルヴィ]]指揮[[ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団]]の演奏がSACD化された。</ref>}}といった名指揮者・作曲家によるアレンジが慣例化している他、[[レオポルド・ストコフスキー|ストコフスキー]]、[[近衛秀麿]]、[[アルトゥーロ・トスカニーニ|トスカニーニ]]なども独自のアレンジを施しており、幾つかはCDなどの録音で検証することが可能である。それらは演奏実践に有益な示唆を含んでいるが、同時に作曲当時には存在していなかった楽器法を取り入れた結果、曲本来の姿を伝える上では障害ともなっている。
 
===ベートーヴェンの本意===
また自筆[[総譜|スコア]]の他にスコア・パート譜から修正チェック用のメモ、テンポは『[[ベートーヴェンの会話帳]]』の1ページに甥のカールによって記され、出版社への修正依頼が記された書簡に至るまで数多くの出版/筆写史料が残っており、細かな違いが無数にあるため食い違いが作曲者の意図なのか写し間違いなのか決定しにくい点が問題となってきた。
 
『[[ミサ・ソレムニス]]』という更なる大曲と並行して作られ、出版や[[オーストリア帝国]]以外の国でも初演される事が決まっていたという前提があったが、長年ベートーヴェンの[[筆跡]]判読を行なっていた筆写作業の統括者ヴェンツェル・シュレンマーが[[1823年]]に亡くなり、作業は停滞する。後継の写譜師達からは仕事を断る者、途中放棄する者が出たほどである。自筆スコアが書き上がった後も初演に向けてベートーヴェンは細部の改訂を執拗に行なった。自筆スコアとは別にスコア+パート譜が1825年までに3種類作られた。膨大な譜面の[[校正]]も困難で、ベートーヴェンも誤写を見過ごしてしまい、体調不良から校正を第三者に委ねようと依頼して断られるなど、混乱は初版第1刷発行後も続いた。このような状況で[[1826年]]に出版された初版スコアは、その版下と比べて食い違いがおびただしい。修正刷りのチェックなど校正がほとんど行われなかったためとみられる。[[1864年]]に出た[[ブライトコプフ・ウント・ヘルテル]]社(ドイツ)の旧全集版は自筆スコア、筆写史料、初版に基づいて作成されているが、テンポの問題は解決されず、歌詞の誤り、写譜師の誤写や初版のミス、ベートーヴェンの改訂前の形を採用するなど問題が多く、さらに元の資料に無い同社独自の改変も見られる<ref>{{Efn|第1楽章81小節に行われた全集版独自の改変などはどの資料にも存在しない音形であるにも関わらず、本格的な原典版が演奏されたときには衝撃をもって迎えられた。同じ改変が最新のハウシルト版でも分析検証の上ではあるが、採用されている。</ref>}}。この改訂の実態は校訂報告が発表されなかったので長年この旧全集版こそ決定版と認識されて来たのである。
 
ベートーヴェンが死の直前にシントラーに贈った自筆スコアはシントラーの死後に[[ベルリン国立図書館]]へ収められたが、国立図書館は戦後は[[東ベルリン]]に属したため容易に研究に用いる事が出来ず「行方不明」とも言われていた。1924年に出版されたファクシミリ(写真版)を参照して修正を加える[[岩城宏之]]、[[オットー・クレンペラー|クレンペラー]]などの例も有った<ref>{{Efn|有名なのが第1楽章300小節のティンパニとトランペット。自筆スコアでは16分音符だが筆写時の誤りで以降の版が全て8分音符になっている。第3楽章の旋律、第4楽章330小節のティンパニに付けられた[[デクレッシェンド]]の処理なども聴いて判りやすい。</ref>}}のだが、旧全集版に慣れた考え方からすると自筆スコアに残る音形は奇異に思われる物も多く、なかなか全面的には受け容れられて来なかった。
 
===再解釈の時代へ===
20世紀末になると、[[ドイツ再統一|東西ドイツの統合]]と[[ソビエト連邦の崩壊|ソ連の崩壊]]に伴い行方不明になっていた資料が発見され、それらの素性も明らかにされて来た。『第九』に関しては残っているだけで20点もの原典資料が、欧米各地に散らばっていたのである。大部分がベルリンにある自筆スコアも数ページがパリの[[フランス国立図書館]]、独[[ボン]]のベートーヴェン研究所にあるなど、所在は今も分散したままである。
 
イギリスの音楽学者・指揮者のジョナサン・デル・マーがこうした新旧様々な資料に照らし合わせて問題点を究明し<ref>{{Efn|その研究を参考に音楽学者・指揮者の[[金子建志]]も演奏史を含めて自らの著作で言及している。この研究は実際に原典資料を演奏に用いるなどの実践に裏付けられたものである。</ref>}}、この研究は楽譜化されて[[1996年]]に[[ベーレンライター出版社|ベーレンライター社]]から出版された。自筆スコアから誤まって伝えられてきた音が元通りに直されたため、ショッキングに聴こえる箇所がいくつもあり大いに話題を呼んだが、ベートーヴェンの書きたかった音形を追求した結果、旧全集同様どの資料にもない音形が数多く表れている点もこの版の特徴である<ref>{{Efn|この版の出版直後「ベーレンライター版使用」と明記した演奏・録音が流行したが、デル・マー版は演奏者が違和感を拭えない箇所が随所にあると見なされ、実際には「新版の改訂を一部だけ採用し、大部分は旧来の楽譜のまま」という扱いだった。昨今では「ベーレンライター版使用」と銘打つ演奏会は鳴りを潜めている。デル・マー版の知名度を大いに上げたのは[[クラウディオ・アバド]]指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団盤(1996年)や[[デヴィッド・ジンマン]]指揮の[[チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団]]盤(1998年。いずれも旧全集版と新版の差異をまとめた訂正表を参照して新版刊行以前に演奏に用いた「試運転」の例)だったが、これらはほとんど原典資料による改訂箇所ではなく指揮者独自の改変が「ベートーヴェンの楽譜に記されている」という誤った期待とともに広まっている。</ref>}}
 
21世紀に入って、旧ベートーヴェン全集の出版社である[[ブライトコプフ・ウント・ヘルテル|ブライトコプフ社]]もペーター・ハウシルトの校訂で原典版を出版した。こちらは先行するデル・マーの版と同じ資料に基づきながらも、資料ごとの優先度が違い、異なる見解がいくつも現れている<ref>{{Efn|例えば先述の第4楽章330小節について、デル・マーは自筆スコアにはデクレッシェンド無し、残存する初演用弦楽器パート譜には全て、初演用のスコアではティンパニだけ、とまちまちであること、また諸説ある初演の合唱団人数を少なく見積もった上「ティンパニに合唱がかき消されないよう、その場で指示された処置ではないか」と考えてこの指示を削除したが、ハウシルトは最後発の筆写スコア(ベートーヴェン自身が校閲したプロイセン王への献呈譜。[[クルト・マズア]]らが参照している)に従い、'''合唱以外の全楽器にデクレッシェンド'''をつけている。この箇所を研究動機の一つとした金子建志は、生前の[[朝比奈隆]]にインタビューした際「[[楽音|噪音]]の多い」ティンパニはあまり大きく叩かせたくないという発言を得ており、また[[フランツ・リスト|リスト]]や[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]によるピアノ編曲版も考慮した上で、ティンパニが低音域で「ラ」=和音の第3音を叩くことが聴感上アンバランスである、と旧全集版のティンパニのみのデクレッシェンドを評価し直している。(『[[レコード芸術]]』2007年10月号、p164-)</ref>}}。いずれも国際協力と新しいベートーヴェン研究の成果、現場の指揮者や演奏家達の助言も容れて編集された批判校訂版である。2020年3月にはベートーヴェン研究所のベアテ・アンゲリカ=クラウス校訂による新ベートーヴェン全集版も刊行された<ref>{{Efn|ヘンレ社は室内楽・管弦楽曲のパート譜は基本的に供給せず、新ベートーヴェン全集の管弦楽曲はヘンレ社が新全集版を刊行した数年後、校訂報告が付属しない新全集版スコアをパート譜セットと共にブライトコプフ社が販売するのが通例であったが、告知から1年遅れ、ブライトコプフ社の演奏譜はヘンレ社の校訂報告付きスコアとほとんど同時期に刊行された。ブライトコプフ社は「第九」の新版を2種類販売することになる。</ref>}}
 
なお、かつて[[NHK教育テレビジョン|教育テレビ]]で[[1986年]]秋に放送された『[[NHK趣味講座]] 第九をうたおう』では、こうしたオーケストレーション変更の意義を、全体の企画と指揮を担当した[[井上道義]]は主に初心者を対象にして分かりやすく説明していた。番組テキストでも、ベートーヴェンが採用したオーケストレーションの意図や、一般的な譜面の読み替え(例えば第2楽章276小節からの第1ヴァイオリンのパートは、現在1オクターブ高く演奏されることが多い)も含め、オーケストレーションの参照譜例が幾つか収録されており、一般市民が入手できるものとして、当時貴重な資料であった。その際、史料状況や編曲の実態について解説したのは[[金子建志]]であった。
* 交響曲
** [[交響曲第8番 (ベートーヴェン)|交響曲第8番]] - '''交響曲第9番''' - [[交響曲第10番 (ベートーヴェン)|交響曲第10番(未完成)]]
 
==注釈==
<references group="注釈">
</references>
 
== 脚注 ==
== 参考文献 ==
* 土田英三郎解説 ミニチュアスコア『ベートーヴェン交響曲第9番ニ短調作品125』[[音楽之友社]], ISBN 4-276-91936-3
*{{Cite book|和書|title=ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱付き」(ポケットスコア)|publisher=全音楽不出版社|author=[[諸井三郎]] (解説)|ref={{SfnRef|諸井}}}}
* 児島新『ベートーヴェン研究』[[春秋社]]、ISBN 978-4-393-93174-5
* ベートーヴェン著、小松雄一郎 訳・編『ベートーヴェン書簡選集』(主に下巻)音楽之友社