「交響曲第9番 (ベートーヴェン)」の版間の差分

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(脚注部内の注釈的内容を注釈見出しとして分離。(余談だが、改めてこう見ると、意外と出典が少なく、驚きである。))
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大規模な編成や1時間を超える長大な演奏時間、それまでの交響曲でほとんど使用されなかった[[ティンパニ]]以外の打楽器([[シンバル]]や[[トライアングル]]など)の使用、ドイツ・ロマン派の萌芽を思わせる瞑想的で長大な緩徐楽章(第3楽章)の存在、そして独唱や混声合唱の導入など、彼自身のものも含むそれ以前の交響曲の常識を打ち破った大胆な要素を多く持つ。[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]や[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]、[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]、[[グスタフ・マーラー|マーラー]]、[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]など、後の交響曲作曲家たちに多大な影響を与えた。また、ベートーヴェンの型破りな精神を受け継いだ[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]や[[フランツ・リスト|リスト]]は、交響曲という殻そのものを破り捨て全く新しいジャンルを開拓した。このように、交響曲作曲家以外へ与えた影響も大きい。
 
日本でも人気は高く、年末になると各地で第九のコンサートが開かれる{{Sfn|金・玉木|2007|p=204}}。近年では、単に演奏を聴くだけではなく、アマチュア合唱団の一員として演奏に参加する愛好家も増えつつある。ヨーロッパにおいて[[オーケストラ]]に加え独唱者と[[合唱団]]を必要とするこの曲の演奏回数は必ずしも多くないが、音盤の制作はピリオドとモダンともに豊富で[[フランソワ=グザヴィエ・ロト]]が[[BBCウェールズ交響楽団]]を指揮したライブ演奏ディスクが、雑誌のおまけに付いたことがあった<ref>{{Cite web |url = https://web.archive.org/web/20191115070439/https://rovimusic.rovicorp.com/image.jpg?c=kLxl1iMMjzOJ3kg4kY7-NCpQg_7iAU1wjqLgK_xGXts=&f=5|title = Beethoven Symphony No.9 |publisher = rovimusic.rovicorp.com |date = |accessdate = 2019-11-21}}</ref>。
 
=== 演奏時間 ===
== 作曲の経緯 ==
[[File:Beethoven Ninth Symphony.png|thumb|right|250px|直筆譜]]
ベートーヴェンがシラーの詞『歓喜に寄す』にいたく感動し、曲をつけようと思い立ったのは、[[1792年]]のことである{{Sfn|金・玉木|2007|p=206}}。ベートーヴェンは当時22歳でまだ[[交響曲第1番 (ベートーヴェン)|交響曲第1番]]も作曲していない時期であり、ベートーヴェンが長きに渡って構想を温めていたことがわかる{{Sfn|金・玉木|2007|p=206}}。ただし、この時点ではこの詞を交響曲に使用する予定はなかったとされる。
 
[[交響曲第7番 (ベートーヴェン)|交響曲第7番]]から3年程度を経た[[1815年]]頃から作曲が開始された。さらに[[1817年]]、ロンドンの[[ロイヤル・フィルハーモニック協会|フィルハーモニック協会]]から交響曲の作曲の委嘱を受け、これをきっかけに本格的に作曲を開始したものと見られる{{Sfn|諸井|p=10}}。実際に交響曲第9番の作曲が始まったのはこのころだが、ベートーヴェンは異なる作品に何度も旋律を使い回しているため、部分的にはさらに以前までさかのぼることができる。
 
ベートーヴェンは第5、第6交響曲、および第7、第8交響曲を作曲したときと同じように、当初は2曲の交響曲を並行して作曲する計画を立てていた。一つは声楽を含まない器楽のみの編成の交響曲であり、さらに別に声楽を取り入れた交響曲『ドイツ交響曲』の制作を予定していた{{Sfn|金・玉木|2007|p=208}}。しかし様々な事情によって、交響曲を2つ作ることを諦めて2つの交響曲のアイディアを統合し、現在のような形となった。歓喜の歌の旋律が作られたのは[[1822年]]頃のことである。なお、当初作曲されていた第4楽章の旋律は、のちに[[弦楽四重奏曲第15番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第15番]]の第5楽章に流用された。[[1824年]]に初稿が完成。そこから初演までに何度か改訂され、[[1824年]][[5月7日]]に初演(後述)。初演以後も改訂が続けられている。楽譜は[[1826年]]に[[:en:Schott Music|ショット社]]より出版された。
 
この作品は、当初は[[ロシア皇帝]][[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]に献呈される予定だったが、[[崩御]]により[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)]]に献呈された。
[[1940年]](昭和15年)12月31日午後10時30分、[[紀元二千六百年記念行事]]の一環として、[[ヨーゼフ・ローゼンシュトック]]が新交響楽団(現在の[[NHK交響楽団]])を指揮して『第九』の[[ラジオ]]生放送を行った。これを企画したのは当時、[[日本放送協会|日本放送協会(NHK)]]の洋楽課員だった[[三宅善三]]である。彼は、その理由について「ドイツでは習慣として[[大晦日]]に第九を演奏し、演奏終了と共に新年を迎える」としている。実際に、当時から現在まで年末に『第九』を演奏しているドイツのオーケストラとして、著名なところでは[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]が挙げられる。厳密にいうと、それを模倣するオーケストラがいくつかあるものの、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による大晦日の『第九』演奏は、深夜に行われるものではない。よって、そういった慣習があるとは言えず、何らかの意思疎通や通訳の誤りが原因の勘違いをしたのではないのかと思われる。
 
日本で年末に『第九』が頻繁に演奏されるようになった背景には、[[第二次世界大戦]]後間もない[[1940年代]]後半、オーケストラ演奏の収入が少なく、楽団員が年末年始の生活に困る状況を改善するため、合唱団も含めて演奏に参加する楽団員が多く、しかも当時([[クラシック音楽]]の演奏の中では)「必ず(客が)入る曲目」であった『第九』を日本交響楽団(現在の[[NHK交響楽団]])が年末に演奏するようになり、それが定例となったことが発端とされる{{Sfn|金・玉木|2007|p=204}}。既に大晦日に生放送をする慣習が定着していたから、年末の定期演奏会で取り上げても何ら違和感が無かったことも一因として挙げられよう{{Efn|[[黒柳徹子]]は父の[[黒柳守綱]](新交響楽団(現在のNHK交響楽団)の元[[コンサートマスター]])から聞いた話として、学生合唱団を加えた演奏を行うことにより、合唱団員の家族などがチケットを購入することで年末の演奏会の入場者数を増やして、楽団員のもち代を稼ぐというアイディアだったと説明している。「TOKYO発 年末第九再発見-演奏年200回超 誕生を探る」『[[東京新聞]]』2007年12月25日朝刊([[中日新聞]]東京本社発行)。}}。1956年(昭和31年)に[[群馬交響楽団]]が行った群馬での第九演奏会の成功が全国に広まったのをきっかけに、国内の年末の『第九』の演奏は急激に増え、現在に至っている<ref>NHK [[プロジェクトX〜挑戦者たち〜]] 第127回 「第九への果てなき道」(群馬交響楽団 10月14日)</ref>。
 
=== バイロイト音楽祭と第九 ===
第二次世界大戦中ドイツに留まり活動していたフルトヴェングラーは[[1942年]]4月19日、[[ナチス・ドイツ]]総統[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の誕生日前日に『第九』を指揮し、[[ヨーゼフ・ゲッベルス|ゲッベルス]]と握手する姿が映画に撮影されるなど政治宣伝に利用され、戦後は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]からナチスとの関わりを責められ一時活動の機会を失うことになった{{Efn|経緯は中川右介・著「至高の十大指揮者(2020年角川文庫)」などに詳しい。フルトヴェングラー自身は最後まで入党せず、1939年以来ヒトラーの誕生日が近づくとウィーンとベルリンから離れ、指揮を執る演奏会に誕生日祝賀の意味が伴わないよう暗に抵抗していたのだが、42年にはゲッベルスが当初入っていた演奏会の予定を無理矢理変えさせ、忌避しようの無い状況にフルトヴェングラーを追い込んだのである。}}。
 
[[1951年]]7月末、終戦後初の[[バイロイト音楽祭]]でフルトヴェングラーは『第九』を指揮し、再開を祝した{{Sfn|金・玉木|2007|p=214}}。他の演目を録音しに訪れていたレコード会社デッカのスタッフも出演者たちも、この第九に常軌を逸した緊張感があったと語っている。しかし録音そのものは1951年当時の技術水準を考慮しても鮮明さを欠いたものであった。元々この演奏のレコード化は正規のものではなく、発売元となった[[EMI]]のプロデューサー[[ウォルター・レッグ]]はフルトヴェングラーから録音を拒否されていた(表向きは「[[バイロイト祝祭劇場|バイロイト]]の音響が録音向きではないから」としているが、当時EMIはフルトヴェングラーが忌み嫌っていたカラヤンと友好関係にあり、フルトヴェングラーの信頼を失いつつあった)。そのためフルトヴェングラーの生前には発売されなかった上、[[録音テープ]]が廃棄されかかったという逸話もある。{{Efn|音質の弱みに関しては「視界に入ると気が散る」と言って[[マイクロフォン]]を撤去させる事もあったフルトヴェングラーにも一因はあろう(デッカのジョン・カルショウによる)。レッグが妻も出演したこの演奏を名演と認めていなかったのは明らかで、指揮者の妻エリザベート夫人の証言によれば、この日の終演後に[[楽屋]]を訪れ感想を求められたレッグは「今日の出来は今一つ。昔はもっと良かった」と言ってフルトヴェングラーを落ち込ませたという。[[モノラル]]LP盤からCD化を行ったグランドスラム盤解説に詳訳あり。}}。
 
しかしフルトヴェングラーの死後にEMIからレコードとして発売されると、日本の評論家達は大絶賛し、今でも「第九のベスト演奏」に挙げられることが多い{{Sfn|金・玉木|2007|p=213}}。録音に問題ありという認識の裏返しでEMIから音質の改善を謳ったCDが何種類も発売されており、初期LPから復刻したCDも複数の企画がある。
 
近年もう一種類の録音([[バイエルン放送]]の放送録音)がCD化(「オルフェオ」レーベル)され、本番なのかリハーサルテープなのかの諸説があるが、「こちらこそ真のバイロイトの第九」と賞賛する声もある{{Efn|レコード芸術誌に載った中村政行の報告によると、バイエルン放送のテープはEMI盤でも音質変化の認められる2か所で編集が施されているだけでなく、「断片的であっても放送利用は禁止」という指示が添えられているが、今日では経緯や理由を知る関係者はなく、解明も進んでいない。}}。
 
=== ドイツ分断と第九 ===
[[1964年]]の[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]に東西ドイツが統一選手団を送ったときに、国歌の代わりに歌われた{{Sfn|金・玉木|2007|p=214}}
 
[[1989年]]の[[ベルリンの壁崩壊]]直後の年末に[[レナード・バーンスタイン]]が、東西ドイツとベルリンを分割した連合国(アメリカ、[[イギリス]]、[[フランス]]、[[ソビエト連邦|ソ連]])のオーケストラメンバーによる混成オーケストラを指揮してベルリンで演奏した{{Sfn|金・玉木|2007|p=213}}。この際には、第4楽章の詩の"Freude"をあえて"Freiheit(自由)"に替えて歌われた{{Sfn|金・玉木|2007|p=213}}。また、翌年の[[ドイツ再統一]]のときの統一前夜の祝典曲として[[クルト・マズア]]指揮の[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]が[[ライプツィヒ]]で演奏した。なおゲヴァントハウスでは毎年大晦日の16時半から、ベルリン・フィルの[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団#ジルヴェスターコンサート|ジルベスターコンサート]]に対抗して演奏されTV中継されている。
 
演奏のみのバージョンが[[欧州連合]](EU)の歌として使用されている{{Sfn|金・玉木|2007|p=214}}。[[2007年]]には[[ルーマニア]]と[[ブルガリア]]がEUに加盟し、2007年の1月[[元旦]]の0時を回ったとき演奏されたのがこの『第九』であった。
 
=== サントリー1万人の第九 ===
* 土田英三郎解説 ミニチュアスコア『ベートーヴェン交響曲第9番ニ短調作品125』[[音楽之友社]], ISBN 4-276-91936-3
*{{Cite book|和書|title=ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱付き」(ポケットスコア)|publisher=全音楽不出版社|author=[[諸井三郎]] (解説)|ref={{SfnRef|諸井}}}}
*{{Cite book|和書|title=ベートーヴェンの交響曲|date=2007年11月20日|publisher=[[講談社現代新書]]|author=金聖響|author2=玉木正之|ref={{SfnRef|金・玉木|2007}}}}
* 児島新『ベートーヴェン研究』[[春秋社]]、ISBN 978-4-393-93174-5
* ベートーヴェン著、小松雄一郎 訳・編『ベートーヴェン書簡選集』(主に下巻)音楽之友社