「大碓皇子」の版間の差分

生年を?付きで復活
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(生年を?付きで復活)
 
| 敬称 =
| お印 = <!-- 日本の皇族のみ -->
| 出生日 = 景行天皇12年?
| 生地 =
| 死亡日 = 景行天皇52年?
| サイン =
}}
'''大碓皇子'''(おおうすのみこ{{Sfn|大碓皇子(古代氏族)|2010年}}/おほうすのみこ、景行天皇12不詳? - 景行天皇52年?)は、[[記紀]]等に伝わる古代[[日本]]の[[皇族]](王族)。
 
『[[日本書紀]]』では「大碓皇子」または「'''大碓命'''(おおうすのみこと)」、『[[古事記]]』では「大碓命」と表記される。
『日本書紀』によれば、大碓命・小碓尊ら双子出生の際、天皇が怪しんで臼に向かって叫んだので、「碓(うす)」の名がついたという<ref name="日本書紀"/>。
 
次いで同書景行天皇4年2月是月条によれば、天皇が神骨(かむほね、[[三野前国造|美濃国造]])の娘の兄遠子(えとおこ)・弟遠子(おととおこ)姉妹が美人であると聞き、大碓命がその視察に遣わされたが、大碓命は密通して復命せず、天皇から恨まれたという<ref name="日本書紀"/>{{Sfn|大碓皇子(古代氏族)|2010年}}。この月には天皇自身が美濃に行幸しているのに大碓皇子を美濃に派遣するのは不合理なため、下記の40年7月16日条の記事の一部が誤って紛れ込んだとも考えられる。その場合は生年の矛盾も解消する。
 
また同書景行天皇40年7月16日条によれば、天皇が[[蝦夷]]平定の適任を群臣に問うと、西征を終えた日本武尊は大碓皇子に任せることを進上した。しかし大碓皇子は草むらに逃げ隠れたため、使者をして召還させられ、天皇から責められたのち、[[美濃国]]に封じられた。そして[[牟義都国造|身毛津君]]・守君の祖になったという<ref name="日本書紀"/>(結局東征は日本武尊が行なった){{Sfn|大碓皇子(古代氏族)|2010年}}。