「カーネーション革命」の版間の差分

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== 背景 ==
[[1933年]]に成立した[[アントニオ・サラザール]]による[[独裁政治|独裁体制]]は40年以上続いたが、[[1961年]]以来[[植民地]]の[[アンゴラ]]、[[モザンビーク]]、[[ギニアビサウ]]では[[ソビエト連邦]][[キューバ]]に支援された独立革命軍との[[ポルトガルの植民地戦争|植民地戦争]]が続いていたため戦費が財政を圧迫し、1950年代から60年代にかけて重工業化が推進されたのにもかかわらず経済状況が悪化、国民が生活苦のために[[フランス]]や[[西ドイツ]]等のヨーロッパ諸国に流出するなどした結果、ポルトガルの地位は西ヨーロッパ最貧国と呼ばれるまでに転落した。
植民地を維持するための戦費は国費の40%に達したが成果はなかったばかりか、植民地から流入する住民により[[失業率]]が悪化。[[スラム街]]が拡大し、国民の[[文盲]]率は38%に達するなど国力は低下し続けた<ref>ポルトガルの春みたび 革命後の選択『朝日新聞』1976年(昭和51年)4月28日、13版、7面</ref>。
 
[[1968年]]にサラザールが病に倒れ、後継の[[マルセロ・カエターノ]]は当初[[民主化]]を進める意思を見せたものの、すぐに独裁体制を維持する姿勢を示に翻意した。主として[[ポルトガル領ギニア]]で泥沼の植民地戦争に服務し、危機感を抱いた国軍の青年将校たちは、[[1973年]]9月に「[[大尉運動]]」を結成し、1974年3月に「{{仮リンク|国軍運動|en|Movimento das Forças Armadas}}(MFA)」に改組、{{仮リンク|アントニオ・デ・スピノラ|en|António de Spínola}}大将を担いで体制変革を目指すようになった。
 
== 決起 ==