「ヘルブラント・ファン・デン・エークハウト」の版間の差分

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(de:Gerbrand van den Eeckhout 17:43, 28. Jan. 2021‎ の一部訳)
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[[アルノルト・ホウブラーケン]]の著書によれば、ファン・デン・エークハウトは[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]の弟子であり、弟子の仲間には[[フェルディナント・ボル]]や[[ニコラース・マース]]、ホーファールト・フリンクがいた。ファン・デン・エークハウトの記録に残る最初の作品が1841年のものであることから、レンブラントの弟子であったのは1635年から1640年の間であったと推定されている。またレンブラントの師匠であった[[ピーテル・ラストマン]]の作品の影響も見られるが、ラストマンは1633年に亡くなっているので、直接的な指導を受けてはいないことになる。
 
宗教や神話、文学を題材にした絵画から肖像画、風景画など様々なジャンルで多くの作品を描いた。[[ウィレム・バイテウェッヘ]](Willem Pieterszoon Buytewech; 1591/92-1624)や[[エサイアス・ファン・デ・フェルデ]](1587-1630)らの後を受けて、[[風俗画]]の発展に寄与し、[[ヘラルト・テル・ボルフ]](1617-1681)や[[ピーテル・デ・ホーホ]](1629-1684)によって風俗画のスタイルは確立されることになる<ref name="akl">''Allgemeines Künstlerlexikon.'' Band 32: ''Ebersbach–Eimbke.'' S. 233.</ref>。
 
兄弟のヤン・ファン・デン・エークハウトがワイン商人として成功し、組合の理事になり、1669年に代表作のひとつの組合の4人の理事の集団肖像画を描いた。作品はよく売れるようになった。アマチュアの詩人として友人の画家、ウィレム・シェルリンクスを称える詩を作った。生涯、結婚することなく、晩年はヤン・ファン・デン・エークハウトの未亡人と暮らした。アムステルダムで亡くなった。