「楊善会」の版間の差分

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'''楊 善会'''(よう ぜんかい、生年不詳 - [[617年]])は、[[中国]]の[[隋]]の[[軍人]]。[[字]]は敬仁。[[本貫]]は[[弘農郡]][[華陰県]]。
 
== 経歴 ==
[[晋陵郡|毗陵郡]][[太守]]の楊初の子として生まれた。[[大業]]年間に[[夏津県|県]]県令となった。[[612年]](大業8年)、山東で飢饉が起こり、民衆の反乱が続発するようになった。善会は数百人を率いて反乱を追捕し、向かうところ全て勝利した。[[張金称]]が反乱を起こし、数万人を率いて県境に駐屯すると、善会は部下を率いて反乱軍と戦い、反乱軍の勢力拡大を防いだ。[[煬帝]]が張金称を討つべく将軍の[[段達]]を派遣すると、善会は段達に計策を進言したが、段達に用いられず、段達の軍は敗北した。段達は善会に謝罪した。後に段達が反乱軍と戦ったときには、軍の進退をいちいち善会と相談したので、段達は大勝を挙げることができた。
 
張金称が[[渤海郡]]の孫宣雅や[[高士達]]らの反乱軍と合流して再起し、黎陽を陥落させて舞い戻ってくると、反乱軍の勢力は再び盛り返した。善会が精鋭の兵1000人を率いて迎撃し、反乱軍を撃破すると、朝請大夫・[[清河郡]]丞に抜擢された。張金称が駐屯地を移して、軽兵で[[|冠氏]]を攻撃した。善会と[[平原郡 (山東省)|平原郡]]通守の楊元弘が数万の兵を率いて張金称の本営を襲撃した。さらに隋の武賁郎将の王弁の軍がやってきたので、張金称は冠氏の包囲を解いて、王弁と戦うと、王弁は戦況不利に陥った。善会は精鋭の兵500を選抜して王弁を救援すると、王弁の軍は戦況を盛り返した。反乱軍は退いて本営を守り、隋の諸軍はおのおの撤退した。このころ山東の反乱は最盛期にあり、隋の郡県は弱体で次々と陥落し、反乱軍と善戦しているのは善会のみであった。善会は前後700回あまりも戦闘して無敗であったが、反乱軍の多勢と比べてはるかに少勢であったため、反乱を鎮圧することはできなかった。
 
[[616年]](大業12年)、隋の太僕の[[楊義臣]]が張金称を攻撃したが、やはり反乱軍に敗北して、撤退して臨清を守った。楊義臣は善会の策を採用して、たびたび決戦し、反乱軍を敗走させた。勝利に乗じて張金称の本営を破り、その部衆の大半を捕らえた。張金称は数百人を率いて逃走し、後に漳南に帰って、残党たちを呼び集めた。善会は追捕して張金称を斬り、首級を煬帝の行在に送った。善会は尚方甲や弓剣を煬帝に賜り、清河郡通守に任じられた。この年、楊義臣の下で漳南の反乱の首領の高士達を斬り、その首級を江都宮に送った。
 
[[617年]](大業13年)、高士達の部将の[[竇建徳]]が長楽王を自称して[[信都郡]]を攻撃し、臨清県の王安が竇建徳に呼応して数千の兵を率いて起兵した。善会は王安を襲撃してこれを斬った。竇建徳は信都郡を攻め落とし、清河郡に進攻した。善会はこれを迎撃しようとしたが、かえって敗北した。清河郡城に籠城し、40日ほどのあいだ反乱軍の包囲を受け、城が陥落して捕らえられた。竇建徳はかれを礼遇し、[[貝州]]刺史として任用しようとした。善会は反乱者たちを「老賊」と罵って、節を曲げようとしなかった。竇建徳はなおもかれを生かしておきたいと考えたが、部下の意見を聞き入れて善会を殺害した。
 
== 伝記資料 ==
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