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=== 平治の乱 ===
{{Main|平治の乱}}
平治元年(1159年)12月9日、義朝は[[藤原信頼]]と共に後白河上皇と二条天皇を[[内裏]]に捕える。14日、13歳の頼朝は[[兵衛府|右兵衛権佐]]へ任ぜられる<ref group="注釈">これにより「鎌倉殿」の呼称が定着するまで長く「佐殿(すけどの)」と称された。又『吾妻鏡』でも元暦二年に従二位に昇叙するまで兵衛府の唐名である「武衛」で記述されている。</ref>。26日、上皇と天皇は内裏から逃れる。27日、[[官軍]]となった清盛らが内裏へと攻め寄せ、[[賊軍]]となった義朝らは敗れ京を逃れ、[[東国]]を目指す。
 
[[ファイル:Yoritomo map1.png|left|近畿から東海地方の地図]]
[[永暦]]元年([[1160年]])2月9日、頼朝は[[近江国]]で捕えられ京の[[六波羅]]へ送られ<ref name="seisyou">『[[清檞眼抄]]』</ref>、[[死刑]]を当然視されるが、清盛の継母の[[池禅尼]]の嘆願などにより死一等を減ぜられる<ref group="注釈">『平治物語』によると、池禅尼のこの助命嘆願は早世した我が子・[[平家盛]]に頼朝が似ていることから清盛に助命を請うたといわれている。『愚管抄』によると、見るからに幼いのに同情して助命嘆願したと言われている</ref>。なお、助命嘆願には後白河院、[[統子内親王|上西門院]]の意向が働いていたとの説もある<ref>元木泰雄『保元・平治の乱を読み直す』([[NHKブックス]]、2004年)</ref>。また、平治の乱の本質は[[院近臣]]同士の争いであり義朝は信頼に従属する者の一人に過ぎず、その子供達の処分が軽度であったのも当然とする見解も示されている<ref>野口実『源氏と坂東武士』([[吉川弘文館]]、2007年)</ref>。3月11日に[[伊豆国]]へと[[罪|流刑]]された<ref group="注釈">[[摂津源氏]]の[[源仲綱]]が伊豆守だったとの説もある。</ref>。
 
なお、次兄の朝長は負傷により[[美濃国]][[青墓宿|青墓]]で落命し、義朝は尾張国[[野間大坊|野間]]にて[[長田忠致]]により謀殺され、長兄の義平は都で処刑され<ref group="注釈">頼朝ら一行の都落ちの状況を示す諸本の記載は下記の通りである。/金比羅系本『[[平治物語]]』によると、一行は[[近江国]]へと至るが、頼朝は[[草津市|野路]]で戦いの疲れから馬上で眠り、一行からはぐれ[[落ち武者狩り|落人狩り]]に遭う。一度はこれを切り抜け[[野洲市|野州]]で一行と合流するが、積雪のため一行が馬を下り歩き始めると再びはぐれ、一月中は[[浅井町 (滋賀県)|浅井]]に身を潜める。その間に一行は、義朝の妻子が住む[[美濃国]][[青墓宿|青墓]]へ至るが、ここで傷を負った次兄・朝長を亡くす。父・義朝は尾張国[[美浜町 (愛知県)|野間]]で[[長田忠致]]の裏切りにより討たれる。それを知った長兄・義平は、清盛らを一人でも討とうと京に戻り、以前の郎党と共に変装して清盛暗殺の機会を狙うが、捕えられ[[六条河原]]で首を斬られた。頼朝は雪が消えると浅井を発ち、青墓を経て尾張へと至るが捕えられた。/『清檞眼抄』(当時の[[検非違使]]の記録)によると二月九日近江国で頼朝が捕らえられたとある。/『吾妻鏡』は大夫属定康というものが大吉寺や私邸に匿ったとする。/古態本『平治物語』によると頼朝は近江国大吉寺に匿われた後、近江浅井北郡の老夫婦の元に匿われ、その後に[[関ヶ原]]において捕らえられたとある。/なお金比羅系本『平治物語』以外の文献には頼朝が美濃青墓へ行ったとの記載は一切無い。</ref>、同母弟の[[源希義]]は流刑される。