「サトラップ大反乱」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
脚注脱落を補遺
12行目:
{{仮リンク|ヘレスポントス・フリュギア|en|Hellespontine Phrygia|label=フリュギア}}太守{{仮リンク|フリュギアのアリオバルザネース|en|Ariobarzanes of Phrygia|label=アリオバルザネース}}は、{{仮リンク|ポントス王国|en|Kingdom of Pontus|label=ポントス|redirect=1}}の支配者の息子で、ヘレスポントス・フリュギアのサトラップ職の正統な継承者{{仮リンク|アルタバゾス2世|en|Artabazos II|label=アルタバゾス}}が成長するまでの代理サトラップを務めていた。しかしアルタバゾスが任に就けるまでになった時、アリオバルザネースは地位を譲り渡すのを拒否し、紀元前366年にダタメースの反乱に合流した<ref name="Brosius28">Brosius 2006, p. 28</ref>。
 
アリオバルザネースは[[スパルタ]]王[[アゲシラオス2世]]の支援を獲得した<ref name="Brosius29">Brosius 2006, p. 29</ref>。紀元前366年[[カリア]]の[[マウソロス]]とリュディアのアウトフラダテスに{{仮リンク|アドラミティオン|en|Adramyttium|label=}}を包囲されたが、アリオバルザネースはここを守り抜き、アゲシラオス2世の交渉もあって包囲軍は撤退した<ref name="Gershevitch378">Gershevitch 1985, p. 378</ref>。アテナイもアリオバルザネースに同調する意図から、彼とその3人の息子にアテナイ市民権を与えた。しかし最後には、アリオバルザネースは息子の{{仮リンク|キオスのミトリダテス|en|Mithridates of Cius|label=ミトリダテス}}に裏切られ、アルタクセルクセス2世により[[磔刑]]に処された<ref>Xenophon, ''Cyropaedia'' [https://www.perseus.tufts.edu/cgi-bin/ptext?doc=Perseus%3Atext%3A1999.01.0204&query=8%3A8%3A4&chunk=section viii. 8]; Aristotle, [https://www.perseus.tufts.edu/cgi-bin/ptext?doc=Perseus%3Atext%3A1999.01.0058;query=section%3D%23125;layout=;loc=5.1311b v. 10]</ref><ref name="Brosius29">Brosius 2006, p. 29</ref>。
 
== オロンテスの反乱 (紀元前362年) ==
[[ファイル:Orontes_I_portrait.jpg|サムネイル|オロンテス1世が発行した硬貨に刻まれた肖像。サトラップの被り物を着用している。]]
紀元前362年、{{仮リンク|アルメニア (アケメネス朝の州)|en|Satrapy of Armenia|label=アルメニア}}太守{{仮リンク|オロンテス1世|en|Orontes I|label=}}はアルタクセルクセス2世に[[ミュシア]]への国替えを命じられたのに反発し、反乱を起こした。高貴な生まれである彼は反乱諸侯から指導者に担ぎ上げられたが、間もなく当のオロンテス1世がアルタクセルクセス2世と妥協して他のサトラップたちを裏切ったため、反乱軍は急速に崩壊していった<ref name="Nelson131">Nelson 1984, p. 131</ref>。オロンテス1世がエーゲ海沿岸の広範囲を与えられた<ref name="Nelson131">Nelson 1984, p. 131</ref>のに対し、ダタメースは義理の息子ミトロバルザネースに裏切られて殺され<ref name="Brosius28">Brosius 2006, p. 28</ref>、アリオバルザネースは処刑された。しかしその他の反乱軍に味方したサトラップたちは赦免され、ここに大反乱は終結した<ref name="Nelson131">Nelson 1984, p. 131</ref>
 
== 脚注 ==