「渋沢栄一」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
268行目:
 
== 系譜 ==
[[渋沢氏]]は[[甲斐源氏]]の流れをくみ、[[甲州征伐]]を期に血洗島村へ逃れ[[帰農]]したという。<ref>[[織田完之]]『青淵先生六十年史』</ref>
江戸末期には、血洗島村には渋沢姓を名乗る家が17軒あった。このため、家の位置によって「中ノ家(なかんち)」「前ノ家」「東ノ家」「古新宅」「新屋敷」などと呼んで区別した。
*「中ノ家」:宗家であったが、江戸時代初期の[[明暦]]年間には家勢が振るわなくなっていた。栄一の父・市郎右衛門は「東ノ家」の当主2代目[[渋沢宗助 (2代目)|渋沢宗助宗休]]([[渋沢儀刑]]の子である初代[[渋沢宗助 (初代)|渋沢宗助宗安]]の子)の三男として生まれたが、「中ノ家」に養子として入り家勢を立て直し、栄一が生まれるころには村の中で「東ノ家」に次ぐ富農となっていた。栄一が故郷を出てからは妹の貞子が「中ノ家」を守り、須永家より[[渋沢市郎]]を婿養子にむかえ4代目とした。貞子・市郎夫妻の長男[[渋沢元治|元治]]は栄一長女の[[穂積歌子|歌子]]の娘である孝子と結婚、東京大学工学部長を経て初代[[名古屋大学]]総長となり、次男治太郎が地元にとどまり、八基村村長、県会議員を務めた。
* 「東ノ家」:栄一が生まれるころには一族で一番繁栄していたため、こちらが本家と呼ばれることもある。栄一の父も、栄一の従兄で論語の師でもある[[尾高惇忠 (実業家)|尾高惇忠]]の母も「東ノ家」出身。[[フランス文学者]]の[[澁澤龍彦]]は3代目[[渋沢宗助]](栄一の父・市郎右衛門の兄)の玄孫。