「フリッツ・ハーバー」の版間の差分

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有機化学を学んでいたが、当時ドイツでは新しい学問分野である[[物理化学]]の人気が高まっていた。フリッツもこの分野に魅力を感じ、今までの専攻分野を変更して、物理化学における代表的な研究者である[[ヴィルヘルム・オストヴァルト]]のもとでの研究を望んだ<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.43</ref>。しかし当時、ドイツの化学界はポストに比べて志望者が多く、とりわけオストヴァルトは人気が高かったため、オストヴァルトの研究員として働くことは叶わなかった。そのためフリッツは、職を求めて企業や大学を転々とし、少しの間、[[チューリッヒ工科大学]]の{{仮リンク|ゲオルク・ルンゲ|de|Georg Lunge}}のもとにも就いた<ref name="nobel">[http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/chemistry/laureates/1918/haber.html The Nobel Prize in Chemistry 1918 Fritz Haber]</ref>。しかし、なかなか思うような仕事場を見つけることができず、24歳の時に父親の染色商の手伝いを始めた<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.45</ref>。
 
ここでは商売の方法などをめぐり父親と意見が食い違った。そのうえ、フリッツは商業上の失敗により、会社に大きな損害を出してしまった<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.46</ref>。親子の溝はますます深くなっていったため、フリッツは父の元を離れ、[[フリードリヒ・シラー大学イェーナ|イェーナ大学]]で修学した。イェーナ大学では{{仮リンク|[[ルートヴィヒ・クノール|de|Ludwig Knorr}}]]のもとで1年半の間研究を行い、クノールとともにジアセトコハク酸エステルに関する論文を発表した<ref name="nobel"/><ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.47</ref>。また、この大学でルドルフ・シュトラウベの講義を聞いたことがきっかけとなり、フリッツはもう一度化学者になりたいという気持ちを強くした。そしてオストヴァルトに研究室に入れてくれるよう懇願したが、その願いは叶えられなかった{{efn|フリッツがオストヴァルトの研究室に入れなかったのはオストヴァルト自身に断られたからだといわれることが多い<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.47など</ref>。しかしそれに対して、オストヴァルトがフリッツの願いを断った事実はないとする反論も存在する<ref>[[#渡邉(2009)|渡邉(2009)]] pp.236-237</ref>。}}。フリッツは他の研究室を探し求め、1894年、[[カールスルーエ大学]]の{{仮リンク|ハンス・ブンテ|de|Hans Bunte}}のもとで、無給助手として働けるようになった<ref name="m48">[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] p.48</ref>。こうしてフリッツは、25歳にしてようやく落ち着いた職場を得ることができた。
 
またこの頃、フリッツは洗礼を受け、ユダヤ教徒から[[ルーテル教会|キリスト教徒ルター派]]へと改宗した<ref name="m48"/>。当時のドイツではユダヤ人に対する反感があったうえ、キリスト教徒以外は大学の研究職に就けないと知ったためであるという<ref>井上尚英『生物兵器と化学兵器』(中公新書)p.59</ref>。フリッツはもともと宗教には熱心でなかったため、改宗することによって形式的にでもドイツ人の一員となろうとしたのである<ref>[[#宮田(2007)|宮田(2007)]] pp.48-49</ref>。