「アレクサンドル・オストロフスキー (劇作家)」の版間の差分

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[[モスクワ]]で生まれた。4子の1人。父親は法律家で、長年の功績によって1839年に貴族の称号を獲得している。母親はまもなく死去した。
 
高校卒業後、1840年から1843年にかけて[[モスクワ大学]]法学部で法を学ぶ<ref name=britannica>[http://global.britannica.com/EBchecked/topic/434486/Aleksandr-Nikolayevich-Ostrovsky Encyclopædia Britannica]</ref>。父親のたっての願いもあってモスクワ商業裁判所に勤務、並行して1846年ころから戯曲を書き始める。1850年に「内輪のことだ、あとで勘定を!」を書き上げたのが最初の戯曲。1851年、演劇に専念することを決断した。商人社会や腐敗した貴族社会を作品でえがいた。
 
1859年に戯曲『雷雨』や1873年の戯曲『雪娘』を書下ろし、モスクワにある[[マールイ劇場]]で上演された。長年にわたってマールイ劇場と関わり、改革、発展に尽力した。