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[[宋 (南朝)|南朝宋]]の[[宜都郡]][[太守]]の何鑠([[何偃]]の弟)の子として生まれた。8歳のとき、父を失って喪に服し、哀毀すること成人のようであった。成長すると学問を好み、[[劉瓛]]に師事して、『[[周易]]』と『[[礼記]]』・『[[毛詩]]』の講義を受けた。さらに[[紫金山|鍾山]]の定林寺に入って仏教の経典の講義を聴き、それらの学問にいずれも通じるようになった。気ままに行動していたため、当時の人に知られることなく、ただ劉瓛と[[周顒]]だけがその器量を認めていた。
 
南朝斉の秘書郎を初任とし、太子舎人に転じた。[[建安郡]]太守として出向した。入朝して尚書三公郎とされたが、受けないうちに司徒主簿に転じた。中書郎・員外散騎常侍・太尉従事中郎・司徒右長史・給事黄門侍郎・太子中庶子を歴任した。国子博士・丹陽邑中正を兼ねた。[[尚書令]]の[[王倹 (南朝斉)|王倹]]が[[武帝 (南朝斉)|武帝]]の命を受けて新礼の編成にあたることになったが、完成しないうちに[[489年]]([[永明]]7年)に死去した。特進の[[張緒]]がその事業を引き継いだが、張緒も同年のうちに死去した。[[490年]](永明8年)、何胤が国子祭酒となり<ref>『[[南斉書]]』百官志</ref>、その事業を引き継いだ。竟陵王[[蕭子良]]が学士20人を置いて、何胤の仕事を補佐させた。[[492年]](永明10年)、[[侍中]]に転じ、歩兵校尉を兼ねた。[[493年]](永明11年)、[[蕭昭業]]が即位すると、何胤は皇后[[何セイ英|何婧英]]の従伯父<ref>『南斉書』鬱林王紀</ref>として厚遇を受けるようになった。左民尚書となり、驍騎将軍の号を受けた。[[中書令]]に転じ、臨海王師や巴陵王師を兼ねた。
 
何胤は貴顕の地位にあったが、常に隠遁の志望を抱いていた。[[建武 (南朝斉)|建武]]初年に郊外に室を築いて小山と呼び、学徒をその中で遊ばせていた。ついには園宅を売って、東山に入る準備をした。[[謝朏]]が[[呉興郡]]太守を罷免されて建康に帰らなかったと聞いて、何胤は後難を恐れ、辞職を願い出る上表を出し、返事を待たずに官を去った。[[明帝 (南朝斉)|明帝]]は激怒し、御史中丞の[[袁昂]]に命じて何胤を収監させたが、ほどなく許して釈放した。何胤は[[会稽山]]に霊異が多いことから、そこに赴いて遊び、若邪山雲門寺に住んだ。かつて何胤の兄である何求と[[何点]]のふたりはいずれも隠遁生活をしていた。何求が先に死去し、ここで何胤が隠遁生活に入ると、当時の人々は何点を大山と呼び、何胤を小山、または東山と呼んだ。