「エドワード・アシリング」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: ハンガリー王記事群の改名に伴うリンク修正依頼 (イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)) - log
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m bot: 解消済み仮リンクゴドウィンを内部リンクに置き換えます
 
33行目:
1016年に[[デーン人]]がイングランドを侵略し、エドマンド2世の死を経て、[[デンマーク]]王子[[クヌート1世 (イングランド王)|クヌート]]がイングランド王に即位した。クヌートはエドマンド2世の子エドワードとエドマンドを大陸に追放した。生後数か月だったエドワードは、この子を殺すようにとの指図書きとともに[[スウェーデン]]王[[オーロフ (スウェーデン王)|オーロフ]]の王宮に連れて行かれた。しかしエドワードは密かに[[キエフ]]に運ばれた。[[キエフ大公]][[ヤロスラフ1世]]の王妃インゲゲルド{{enlink|Ingegerd Olofsdotter}}はオーロフの娘だった。そこから[[ハンガリー王国|ハンガリー]]に移された。<!--他の家系関係は検証不可能につき省略-->
 
それから長い年月が経ち、クヌート死後に即位した叔父のイングランド王[[エドワード懺悔王]]はエドワードが生きていたことを知り、自分の王位継承者にするためにエドワードをイングランドに呼び戻した。エドワード生存の報せが懺悔王の耳に届いたのは、デーン人による長いイングランド支配からアングロ・サクソン王朝(ウェセックス家)が覇権を取り戻したものの、後継者がおらず、その家系が途絶えかけ、[[ウェセックス伯爵|ウェセックス伯]]{{仮リンク|[[ゴドウィン (ウェセックス伯)|label=ゴドウィン|en|Godwin, Earl of Wessex}}]]の子であるハロルド・ゴドウィンソン(後の[[ハロルド2世 (イングランド王)|ハロルド2世]])や、海峡の向こうの[[ノルマンディー公]]ギヨーム2世(後の[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]])が次の王位を狙っている時期だった。エドワードはウェセックス家を受け継ぐ最後の頼みの綱であった。<!--以下省略-->
 
1057年、エドワードはイングランドに帰国したが、到着して2日後に亡くなった。正確な死因は不明であるが、殺された可能性もある。<!--以下省略-->