「齋藤内閣」の版間の差分

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1932年(昭和7年)5月、[[内閣総理大臣]]の[[犬養毅]]が武装した[[大日本帝国海軍|海軍]]青年将校らに殺害されたあと([[五・一五事件]])、[[元老]]の[[西園寺公望]]は、[[犬養内閣]]の[[陸軍大臣]]であった[[荒木貞夫]]から[[政党内閣]]の拒絶の意を伝えられ、また対米英協調派の[[昭和天皇]]の意向を受けて、次期首相の推薦についての調整を行った。その結果、[[シーメンス事件|シーメンス汚職事件]]で引責辞任した元[[海軍大臣]]で、[[朝鮮総督府|朝鮮総督]]在任の時期に[[子爵]]の爵位を授与されていた穏健派の斎藤実が首相として推薦されることとなった。
 
[[犬養毅]]総裁及び首相を失った立憲政友会はこのとき、テロによる[[内閣総辞職]]の後の首班には同じ政党の[[党首]]を推薦するという[[元老]]の慣例を考慮し<ref group="注釈">[[濱口内閣]]の後継の[[第2次若槻内閣]]。また、[[憲政の常道|憲政常道]]の確立以前ではあるが、[[原内閣]]の後継の[[高橋内閣]]。</ref>、[[元老]]と[[天皇]]による次期党首の次期首相指名という[[大命降下]]を期待していた。
 
ここで、右派の[[森恪]]らは次期総裁・首相として、[[右翼]]とつながりを有し[[ナチズム]]や[[ファシズム]]、[[共産主義]]など外来思想を危険視していた司法官僚の[[平沼騏一郎]]を押していたが、立憲政友会は5月17日、[[鳩山一郎]]の義弟である[[鈴木喜三郎]]を選出していた。
 
[[元老]][[西園寺公望]]も当初は[[政党内閣]]継続の為、鈴木を次期首相に推薦する意向であり、陸相の[[荒木貞夫]]も19日に鈴木と会見し「鈴木内閣発足に反対しない」と発言したと報じられた<ref>『東京日日新聞』1932年(昭和7年)5月19日</ref>。だが翌20日、陸軍の少壮将校がこれに反発し、政友会単独内閣成立に強く反対していることが報じられ<ref>『東京日日新聞』1932年(昭和7年)5月20日</ref>、不穏な情勢となった。21日、西園寺は重臣<ref group="注釈">[[倉富勇三郎]][[枢密院 (日本)#歴代議長|枢密院議長]]、[[牧野伸顕]][[内大臣]]、[[近衛文麿]][[貴族院議長 (日本)#歴代貴族院副議長|貴族院副議長]]、[[若槻禮次郎|若槻礼次郎]]元首相、[[清浦奎吾|清浦圭吾]]元首相、[[山本権兵衛]]元首相</ref>や元帥<ref group="注釈">[[上原勇作]]、[[東郷平八郎]]</ref>の意見を聞いた上で、鈴木ではなく海軍穏健派の長老である斎藤実を推薦する事にした<ref group="注釈">西園寺はこれを一時的な措置とし、いずれ政党政治に戻す事を企図していたとされるが、時局が進むにつれそれが実現することはなかった。</ref><ref group="注釈">鈴木に対しては、[[犬養内閣]]の[[内務大臣]]であったことから「治安の責任者たる内務大臣が首相暗殺によって引責どころか首相就任というのはどうなのか」という問題や、昭和天皇が西園寺に述べた「ファッショに近い者は不可」という意向に[[国本社]]理事で平沼と近い鈴木が抵触するという問題もあった。[[多田井喜生]]「決断した男 [[木戸幸一]]の昭和」P97~98、文藝春秋、2000年。</ref>。斎藤は「[[英語]]に堪能で、[[条約派]]に属する国際派の[[海軍軍人]]であり、粘り強い性格、強靭な体力、本音を明かさぬ慎重さが評価されていた」という。
 
同26日、第30代[[内閣総理大臣]]に就任(同年7月6日まで[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]兼任)。
(詳細は、「[[五・一五事件#後継首相の選定]]」を参照。)
== 概要 ==
斉藤内閣は1932年(昭和7年)9月、それまで帝国政府が断固として承認しなかった[[満州国|満洲国]]を承認する[[日満議定書]]を、また、1933年(昭和8年)5月には中国軍と日本軍との間の停戦協定である[[塘沽協定]]を、満州との間に締結した(この当時の外務大臣は、[[内田康哉]])。
 
=== 国際連盟の脱退 ===
[[国際連盟]]は[[満州事変|満洲事変]]について、1932年(昭和7年)に[[リットン調査団]]を派遣し、その結果10月に[[リットン報告書]]が提出され<ref>[[加藤陽子]]『満州事変から日中戦争まで』[[岩波新書]]2007年 137頁</ref>、リットン報告書を基礎に起草された勧告案<ref>[[加藤陽子]]『満州事変から日中戦争まで』[[岩波新書]]2007年 133-135頁、161-162頁</ref>は1933年(昭和8年)2月24日のジュネーブ特別総会で採択された。
 
同報告書の内容は日本の満州における特殊権益の存在を認める等、日本にとって必ずしも不利な内容ではなかったが、同報告書が[[満州国]]を独立国と認めず国際管理下に置くことを勧告したことから、国内では受諾反対の世論が沸騰。斎藤および内田もこれに呼応し、日本全権席の[[松岡洋右]]はやむなく議場を退席。
 
3月27日に日本は国際連盟を脱退した([[松岡洋右#ジュネーブ総会派遣・連盟脱退|「国際連盟脱退」]])。この斎藤内閣の選択を期に、日本は国際社会において孤立への道を歩み始める。
政財界だけでなく高橋蔵相の息子まで疑惑が広がり、政権批判の世論が収まることはなく、齊藤内閣は7月8日、[[内閣総辞職]]した。
 
なお、その後、帝人事件の担当裁判官の[[石田和外_(裁判官)|石田和外]]らは1937年、被告ら全員に事件そのものが事実無根として無罪判決を言い渡した(司法大臣は[[小山松吉]])。
 
=== その他の主な出来事 ===