「ロバートソン黎子」の版間の差分

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|画像説明=
|出生名= 蒲田 黎子(がまだ れいこ)
|生年月日=[[1932年]]
|生誕地= {{JPN}} [[富山県]][[射水郡]][[能町村]](現[[高岡市]]能町
|没年月日=[[2020年]]10月
|死没地={{USA}}[[メリーランド州]]
|国籍=<!-- {{JPN}} -->
|別名=
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|出身校=
|職業= [[ジャーナリスト]]
|活動期間= [[1957年]] - 現在2020年
|配偶者= トマス・リー・ロバートソンJr(1961年 - 2017年)
|非婚配偶者=
|子供= [[モーリー・ロバートソン]]<br />[https://www.researchgate.net/profile/Henry_Robertson3 ヘンリー・ロバートソン]
|親=
|親戚=
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== 来歴・人物 ==
現在の[[富山県]][[高岡市]]能町生まれ。生家は古くからの[[地主]]であり、[[農地改革]]前は「三歩あるけば一歩は蒲田はんの地面」と言われるほどの土地を所有していた<ref>[[モーリー・ロバートソン]]『よくひとりぼっちだった』p.228([[文藝春秋]]、[[1984年]])</ref>。[[富山県立伏木高等学校|富山県立高岡北部高等学校]]の同期に後の[[高岡法科大学]]学長[[吉原節夫]]がいた。[[東京外国語大学]]英語学科を経て[[1957年]]に[[早稲田大学政治経済学部|早稲田大学第一政治経済学部]]卒業。[[岩波書店]]と[[日本放送協会|NHK]]の採用試験にも合格したが<ref>[[渡辺善一郎]]「蒲田さんのこと」(『もしもしハロー』p.203)</ref>、[[1957年]]、[[毎日新聞]]東京本社に入社。1年間の[[仙台]]支局勤務を経て、女性初の外信部記者となる。[[フルブライト奨学金]]を獲得し、[[1958年]]8月から日本人女性として初めて[[ヴァージニア大学]]([[国際関係論]][[修士課程]])に留学していた時、同大学[[メディカル・スクール|医科大学院]]在学中に、宣教師の息子で高校時代にインドのダージリンで過ごした経験がある[[スコットランド人|スコットランド系]][[アメリカ合衆国#国民|アメリカ人]]のトマス・リー・ロバートソンJrと知り合う。[[1959年]]10月、日本に帰国。『[[毎日新聞]]』[[日曜日|日曜]][[夕刊]]一面にインタビュー記事「十字路」を連載。[[1961年]]に毎日新聞社を退職して[[聖路加病院]]でトマスと結婚しロバートソン姓となって渡米。同年12月、七曜社から刊行した『もしもしハロー─私は第一線婦人記者』には[[小田実]]と[[三島由紀夫]]が序文を寄せている。トマスとの間にモーリーとヘンリーの2児を儲け、孫は3人いる。
長男の[[モーリー・ロバートソン]]は後にジャーナリスト、ミュージシャン、ラジオパーソナリティとなった。黎子の旧姓が蒲田であるため、モーリーは高校時代、[[予備校]]の夏期講習に「蒲田杜夫」という偽名で登録したことがある<ref>[[モーリー・ロバートソン]]『よくひとりぼっちだった』p.289([[文藝春秋]]、[[1984年]])</ref>。
 
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[[1998年]]から[[2007年]]には、夫のトマスが東京の[[第一製薬]]の研究開発部門の特別顧問に招聘されたために、日本で生活していた。
[[ピッツバーグ大学]]教授を務め、医師でもあった夫のトマスが[[膵臓癌]]で[[2017年]]5月22日、[[メリーランド州]][[ポトマック]]の自宅で83歳で逝去した。
 
[[2020年]]10月、腎不全及び心疾患のためメリーランド州の[[ホスピス]]で死去<ref>[http://officemorley.com/archives/9789 訃報] (モーリー・ロバートソン公式サイト 2021年2月24日)2021年6月28日閲覧。</ref>。88歳没。
 
==著書==
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[[Category:富山県出身の人物]]
[[Category:1932年生]]
[[Category:存命人物2020年没]]