「赤松氏範」の版間の差分

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== 略歴 ==
[[元徳]]2年([[1330年]])、[[赤松則村]](円心)の四男として誕生<ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 13頁。</ref>
 
無双大力の勇士で父と共に各地を転戦する。[[正平 (日本)|正平]]5年/[[観応]]元年([[1350年]])1月に父が死去すると、3人の兄といずれも不仲だったことから[[観応の擾乱]]では3人の兄が北朝にくみしたのに対して氏範は南朝に味方した。[[摂津国]]中島郡と[[有馬郡]]、[[備前国]]馬屋郷などに勢力を持った。正平8/年[[文和]]2年([[1353年]])には[[四条隆俊]]に従って[[足利義詮]]を破り、正平10年/文和4年([[1355年]])には[[山名時氏]]や[[足利直冬]]らと共に[[京都]]に侵攻して京都を回復するが兵糧問題から京都を放棄した。以後は南朝の中心的武将として[[興良親王]]<ref>[[赤松宮]]、[[陸良親王]]ともいわれる。[[護良親王]]の子。母は[[北畠親房]]の娘。</ref>を奉じ、南朝の兵力も任されるに至った。
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終焉の地となった[[清水寺 (加東市)|清水寺]]に氏範らの墓がある。また、同地には「赤松氏範の切腹石」と伝わる大石も存在する。
 
 
== 脚注 ==