「藤原師実」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
29行目:
師実は養女の[[藤原賢子|賢子]]([[源顕房]]の娘)を[[白河天皇]]に入内させると、賢子は天皇の寵愛を受け、さらに長男・[[敦文親王]]を産んだため[[中宮]]に冊立され(敦文親王は早世するが、後に善仁親王(後の[[堀河天皇]])を産む)、師実の[[後宮]]政策は成功した。後に、叔父で関白・[[藤原教通|教通]]の生前より、教通およびその子で従兄の[[藤原信長|信長]]と摂関・[[藤氏長者]]の地位をめぐって対立するが、そもそも頼通から教通へ継承される際に「教通は一代限りで、次代は頼通の子に継承させる」とする遺言があり<ref>そもそもは、[[藤原道長]]が生前に定めておいた方針に基づいている。</ref><ref>関白職を獲得するまでの教通の忍従、特に頼通に対して従順であることは、ほとんど卑屈の域に達するものだった。ところがいったん関白に就任すると、教通はこれを自身の子である信長に譲ることを考え始める。教通は頼通が健在でいる間はたびたび関白の辞表を出したり、兼任していた左大臣を辞して頼通の嗣子・師実に譲ったりしていたが、いよいよ死期が近づいた頼通から関白を師実に譲るよう求められると、教通は天皇の裁可が必要云々を口実にこれを拒んだ。頼通は師実の関白就任を見届けることなく、延久6年(1074年)2月、83歳で死去した。</ref>、[[藤原彰子|上東門院彰子]]などの監視もあったために、教通・[[藤原信長|信長]]親子は師実を完全に排除することができず、逆に、教通が左大臣職を師実に譲るなどして、遺言を実行するような気配を見せるなどせねばならなかった。頼通・師実家の権勢を削るために、自らも痛手を受けることを覚悟の上で、[[後三条天皇]]が行った[[延久]]の[[荘園整理令]]の施行を事実上容認したりもしている。
 
信長に摂関の地位を継承させることができないままに教通が死去すると、師実は左大臣として既に「[[一上]]」であり内大臣の信長よりも上席であり、また、[[藤原氏]]との関係が希薄な弟宮達([[実仁親王 (平安時代)|実仁親王]]、[[輔仁親王]]・摂関家に冷遇された[[三条源氏]]の系譜)ではなく、自らと賢子の間に生まれた善仁親王への皇位継承を望んでいた白河天皇と協調し、教通死去後即座に師実が[[内覧]](摂関)・[[藤氏長者]]となることに成功した。この体制には反対勢力もあり、信長の二年に渡る出仕停止など対立は数年に及んだが、自らに反対する貴族らの象徴となっていた[[内大臣]]の信長を、左大臣である自分を飛び越えさせてまで<ref>当時、右大臣は空席。官を飛び越えられることは大変不名誉とされていた。</ref>(事実上名誉職となっていたが、地位的には左大臣より上席の)[[太政大臣]]に据えつつも[[一座]][[宣旨]]をうけることで、左大臣以下の人事を自らの意のままとして権勢を固めた。
 
白河天皇も師実には一目置き、院政を開始した後も師実の意向には配慮するように努めている。実際、白河上皇は[[院庁]]の人事さえも師実の人選に任せ<ref>『[[為房卿記]]』応徳3年11月26日条・寛治元年4月7日条。</ref>、師実も上皇の娘[[媞子内親王|郁芳門院]]が亡くなった時に悲しみに暮れる上皇に代わって葬儀の準備を行っている<ref>『[[中右記]]』嘉保3年8月8日・16日条。</ref>。