「竇建徳」の版間の差分

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大業13年([[617年]])、楽寿(現在の河北省[[滄州市]][[献県]])にて長楽王を自称し、独自の元号として[[丁丑 (夏)|丁丑]]を建て、積極的に領土拡大を行った。煬帝は[[薛世雄]]に命じ3万の軍勢で討伐しようとするが、竇建徳軍の待ち伏せに遭い壊滅した。こうして河北の殆どの地域が竇建徳の統治下に置かれることとなった。翌丁丑2年([[618年]])、竇建徳は夏王を称し[[五鳳 (夏)|五鳳]]と改元、8月には[[メイ州|洺州]](現在の河北省[[邯鄲市]][[永年区]])に遷都した。
 
五鳳2年([[619年]])、[[王世充]]が[[恭帝トウ|楊侗]]を廃し皇帝を自称すると、竇建徳もまた朝廷を整備していく(ただし夏王の称号を使用)。五鳳4年([[621年]])、唐の[[太宗 (唐)|李世民]]が王世充の拠点である[[洛陽]]を攻撃すると、王世充の要請を容れて竇建徳も出兵するが、[[虎牢関]](現在の[[河南省]][[鄭州市]][[滎陽市]])で李世民の軍に破れて捕らえられ、[[長安]]で処刑された。
 
竇建徳の処刑により、夏の残存勢力を中心として盟友の[[劉黒闥]]が自立し、河北の混乱が続くこととなった。