「李子通」の版間の差分

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大業14年([[618年]])に[[宇文化及]]が[[煬帝]]を殺した後、[[揚州 (江蘇省)|江都]]太守の[[陳稜]]が江都を守っていた。李子通が江都を攻撃したため、追いつめられた陳稜は[[沈法興]]と[[杜伏威]]に救援を求めた。李子通の部下の[[毛文深]]が沈法興と杜伏威のあいだを離間し、2勢力が牽制しあっている隙に、李子通は江都を奪取した。[[皇泰]]2年([[619年]])、江都で皇帝を称し、国号を'''呉'''、元号を[[明政 (李子通)|明政]]と定めた。[[丹陽郡 (江蘇省)|丹陽]]に拠った[[楽伯通]]を降して、尚書左僕射に任じた。また沈法興を破って晋陵を奪い、[[李百薬]]をはじめとした江南の[[士大夫|士人]]の多くを帰順させた。
 
しかし間もなく杜伏威の部下である[[{{仮リンク|輔公セキ|zh|辅公祏]]}}に破れ、江都を捨て長江を渡り[[余杭]]へと逃れ再起を図った。明政3年([[621年]])に再度杜伏威に敗れると、楽伯通とともに[[長安]]に連行された。高祖[[李淵]]は邸と畑を与えて厚遇したが、[[武徳]]5年([[622年]])に楽伯通と語らって乱を図ったため、藍田で捕らえられて処刑された。
 
== 伝記資料 ==