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== 経歴 ==
南朝斉の中書侍郎の[[周顒]]の子として生まれた。幼くして聡明で、成長すると広く学問に通じ、とくに経典の解釈に詳しかった。斉の太学博士を初任とし、後軍行参軍に転じた。[[建武 (南朝斉)|建武]]年間、尚書僕射[[江セキ|江祏]]が[[北魏]]から亡命してきた呉包を招いて[[儒学]]を講義させると、周捨は呉包と議論してその言辞がすぐれていたため、「口弁」と渾名された。[[王亮]]が丹陽尹となると、周捨は召し出されて主簿となり、行政事務の多くを任された。太常丞に転じた。
 
南朝梁が建てられると、周捨は奉常丞となった。[[蕭衍|武帝]]が即位すると、吏部尚書の[[范雲]]の推薦を受けて、尚書祠部郎に任じられた。梁朝の儀礼の多くは、周捨が提案したものが採用された。ほどなく後軍記室参軍・[[江寧区|秣陵]]県令として出向した。入朝して中書通事舎人となり、太子洗馬・散騎常侍・中書侍郎・鴻臚卿を歴任した。ときに王亮が罪をえて蟄居し、旧友でかれを訪れるものもいなかったが、ひとり周捨は以前と変わらずに王亮とつき合った。王亮が死去すると、周捨は自ら通夜や葬儀を営み、当時の人に賞賛された。