「ホセ・ロペス・ポルティーヨ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
来日時の記述
24行目:
ロペス・ポルティーヨは1920年6月16日に[[メキシコシティ]]で生まれ、[[メキシコ国立自治大学]]の法学部を卒業後、1959年に与党である[[制度的革命党]]に入党して政界に入った。[[グスタボ・ディアス・オルダス]]と[[ルイス・エチェベリア]]の2代の大統領の下で閣僚を歴任し、[[1973年]]から[[1975年]]まではエチェベリア政権の下で財務大臣を務めた<ref>「メキシコを知るための60章」p294 [[明石書店]] 2005年2月25日初版第1刷</ref>。1976年には制度的革命党の大統領候補に選ばれ、選挙に勝利して同年12月1日にメキシコの大統領に就任した。
 
ポルティーヨ政権は前エチェベリア政権の政策を基本的に踏襲し、メキシコの[[カンクン]]で[[アメリカ合衆国]]・[[日本]]・[[西ドイツ]]など[[先進国]]と[[インド]]・[[中華人民共和国]]・[[ブラジル]]など[[発展途上国]]の首脳を集めて[[南北問題]]を議論する初の{{仮リンク|南北サミット|en|North–South Summit}}を主催してエチェベリアと同様に[[第三世界]]のリーダーの一人として振る舞った<ref>Guide de voyage Ulysse, Cancun et la Riviera Maya, 3 janvier 2013, 283 pages.</ref>。1976年の財政危機後にモンテレー・グループと呼ばれる企業家層との関係を改善させつつ、歴代政権のやってきた国営企業重視の姿勢は続け、さらにメキシコの国営企業の中核である[[ペメックス]]の経営は[[オイルショック]]によって好転したため、当座の危機を免れることができた。石油価格の上昇はメキシコ経済を成長させ、さらに[[タバスコ州]]と[[チアパス州]]において新油田が発見されたこともあり、メキシコ経済は成長を続けた。この

石油収益を基本に、ロペス・ポルティーヨ政権は野心的な経済開発を進めたが、これにより政府借款が急速に増大していった。[[1981年]]に石油価格が暴落するとメキシコの財政はたちまち行き詰まり、通貨[[メキシコ・ペソ]]の暴落によって借款の主な引き受け先であった外国銀行は融資を拒否するようになった。これに対し、ロペス・ポルティーヨは1982年[[9月1日]]に銀行の国有化を発表したが、根本的な解決とはならなかった<ref>「ケンブリッジ版 世界各国史 メキシコの歴史」p287-290 [[創土社]] 2008年5月20日初版第1刷</ref>。ロペス・ポルティーヨは後任に同政権の企画予算大臣だった[[ミゲル・デ・ラ・マドリ・ウルタード]]を指名し、デ・ラ・マドリ・ウルタードが当選すると退任した。
 
== 日本との関係 ==
[[1978年]]10月に夫人とともに国賓として来日。天皇や福田首相と会談を行った。[[大勲位菊花大綬章]]を受章<ref>陽気なメキシコ大統領夫人 両陛下の前で歌を歌う『朝日新聞』1978年(昭和53年)10月31日朝刊、13版、3面</ref>。
 
==脚注==
48 ⟶ 53行目:
[[Category:メキシコの政治家]]
[[Category:メキシコシティ出身の人物]]
[[Category:大勲位菊花大綬章受章者]]
[[Category:1920年生]]
[[Category:2004年没]]