「中山兼宗」の版間の差分

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議政官として、[[大嘗祭|大嘗会]]御禊次第司御後長官・[[加賀国#国司|加賀権守]]・[[中宮職|中宮]]([[九条立子]])大夫・按察使などを兼帯。[[建保]]6年([[1218年]])子・[[中山忠定|忠定]]を[[参議]]に申請して自らは大納言を辞すが、2年後の[[承久]]2年([[1220年]])には「子強好交衆、又増不孝耳」(『[[明月記]]』[[寛喜]]元年4月9日条)のため忠定を[[解官]]させており、父子の確執は深まり、[[天福 (日本)|天福]]元年([[1233年]])には[[三浦義村]]や[[藤原定家]]の調停を受けるまでに騒ぎは大きくなった。[[嘉禎]]元年([[1235年]])[[大隅国]]の[[知行|知行国主]]となる。[[仁治]]3年([[1242年]])9月3日、薨去。享年80。
 
歌人としては『[[千載和歌集]]』(歌番号328)に1首入る他、『[[新古今和歌集]]』以後の勅撰和歌集に20首入集し、建久2年の若宮社歌合、[[六百番歌合]]、[[千五百番歌合]]、経房家歌合などにも出詠している。『[[井蛙抄]]』巻六によれば、定家は「歌は兼宗大納言、[[束帯]]にて陣座に着て。公事をこなひたる様によむべし」と語ったと伝えられる。また[[治承]]3年([[1179年]])正月には[[高倉天皇]]の朝[[行幸]]の御遊に伺候し、初めて[[箏]]の役を務めて以来、建久 5年には楽所[[別当]]にも補され、種々の[[和歌]]会御遊などでも[[箏]]や[[琵琶]]の役を担当したことが知られる。
 
== 系譜 ==