「宮本武蔵」の版間の差分
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この一連の戦いにより、吉岡家は滅び絶えた。}}
[[ファイル:小倉碑文.jpg|thumb|right|[[宮本伊織]]が武蔵の菩提を弔うために承応3年(1654年)に[[豊前国]][[小倉藩]]
『小倉碑文』などの記録は、他の史料と比べて事実誤認や武蔵顕彰の為の脚色も多く見られる。吉岡家の記述に限定すれば、武蔵に完敗し引退した清十郎、死亡した伝七郎、洛外下松の事件の記録は他の史料になく、創作の可能性がある。また、兵仗弓箭(刀・槍・薙刀などの武具と弓矢)で武装した数百人の武人を相手に一人で勝利するなどの記述は現実離れしている。同様に新免無二と吉岡家との足利義昭御前試合に関する逸話も他の史料になく、因縁を足利将軍家と絡めて描くことで物語性を高めるための創作の可能性がある。
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