「土屋耕一」の版間の差分

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23歳の時に、知り合いから[[TBSラジオ&コミュニケーションズ|TBSラジオ]]のモニター募集に採用され、[[朝日新聞]]に匿名で批評を書くなどの仕事を経て、ラジオの企画立案者募集(実際には、ラジオの企画立案の方はすでに採用者が決まっていたらしく、残っていたのは広告文案家の求人のみだったという)の広告を見て、応募。のちに[[資生堂]]の宣伝文化部を紹介され、[[1956年]]に嘱託社員として入社。デザイナーならびにイラストレーターをしていた[[山名文夫]]・[[水野卓史]]などのデザイナーのもとで、コピーライター<ref>土屋曰く「その当時、広告文案の勉強の場があったわけでもなく、成り行きで資生堂に入ったら、僕がコピーライター第1号だった」という。安部敏行「クリエィティブは時代の空を飛ぶ」誠文堂新光社[[1989年]]参照。</ref>としての研鑽を積んでゆく。
 
資生堂を経て、[[1960年]]に日本初の広告制作プロダクションとして設立された[[ライトパブリシティ]]へ入社、当時の主要アートディレクターならびにデザイナーとして知られる[[大橋正]]や[[和田誠]]、[[向秀男]]らと組んで、[[明治製菓]]や[[キッコーマン]]、[[伊勢丹]]、[[東レ]]、紳士服メーカー[[エドワーズ (企業)|エドワーズ]]などの企業広告のコピーを書いてゆく。
 
[[1976年]]にライトパブリシティを退社後は、フリーに転じ「土屋耕一の仕事場」を開いた後も、コピーライターとして活躍し続け、その間に[[回文]]集「軽い機敏な子猫何匹いるか」([[誠文堂新光社]])や「さも虎毛の三毛 住まいの愉快学」([[住まいの図書館]])などの著作を発表した。また長年に渡り、[[伊藤園]]から発売されている「おーいお茶」のパッケージに記載されている季節の川柳選者としても、その名を知られた。