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[[404年]]([[元興 (東晋)|元興]]3年)、[[劉裕]]が桓玄打倒のために起兵すると、袁湛は劉裕の下で鎮軍諮義参軍となった。[[405年]]([[義熙]]元年)、尚書吏部郎に転じた。後に司徒左長史や[[侍中]]に任じられた。劉裕の征戦に従軍した功績により、晋寧県五等男に封じられた。また劉裕の下で太尉長史となった。次いで左民尚書となり、掌吏部に転じた。[[呉興郡]][[太守]]となり、善政で知られた。入朝して[[中書令]]に任じられ、また出向して呉国内史となった。[[416年]]([[義熙]]12年)、尚書右僕射・本州大中正に上った。袁湛は[[太尉]]を兼ね、[[范泰]]らとともに宋公の位と九錫の礼物を劉裕に授与しようとしたが、劉裕は固辞した。袁湛らは劉裕の[[北伐]]に従って[[洛陽]]に入った。范泰らは授与の任を終えていないことを理由に晋の帝陵に参拝しなかったが、袁湛はひとりで五陵に参拝して敬意を表した。
 
[[418年]](義熙14年)、在官のまま死去した。享年は40。左光禄大夫・散騎常侍の位を追贈された。[[宋 (南朝)|宋]]の[[文帝 (南朝宋)|文帝]]が即位すると、[[皇后]][[袁斉キ|袁斉媯]]の父として、侍中・以左光禄大夫・[[開府儀同三司]]の位を追贈された。[[諡]]は敬公といった。
 
== 子女 ==
*袁淳
*[[袁斉キ|袁斉媯]]
 
== 伝記資料 ==