「あじあ (列車)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
10行目:
©Park, Bogyun 박보균 중앙일보 대기자]]
[[Image:CNR_SL-751.jpg|thumb|right|勝利7型(パシナ形751号機)、1984年]]
[[1932年]](昭和7年)の[[満州国]]成立当時、[[黄海]]に突出した港湾都市[[大連市|大連]]と、[[首都]]新京との間は満鉄連京線によって結ばれており、大連では[[大連港]]を発着する日本への定期船連絡していた。
 
「あじあ」は、国際旅客も多く利用する大連 - 新京間の速度および快適性を向上させ、世界水準の旅客サービスを提供することを目標に計画された列車である。[[1933年]](昭和8年)8月に[[空気調和設備]]([[冷房|冷房装置]])を備えた特急列車の開発が決定し、翌1934年(昭和9年)にかけて比較的短期間で開発が進められた。「キング・オブ・ロコモティブ」として知られた設計責任者・[[吉野信太郎]]は、[[アメリカン・ロコモティブ]]社に2年半も留学。帰国後の[[1927年]](昭和2年)に「[[南満州鉄道の車両#急行旅客用|パシコ]]」形を設計し、その後は満鉄機関車のほとんどを手がけた。
16行目:
当時の満鉄理事には、[[軌間]]1,435 mmの[[標準軌]](当時の[[広軌]])鉄道推進派の技術者[[島安次郎]]もいた。当時の日本国内([[内地]])の標準軌間は1,067 mmの[[狭軌]]であるため、スピードアップには自ずと限界があった。「あじあ」は、満洲の地でその夢を実現させようと考え、開発したものともいえる。しかし島は、「あじあ」用の「パシナ」形に用いられた米国流の設計手法をまったく身に付けておらず、実際に参加したかどうかは疑わしい。後に、島は、戦前の[[新幹線]]計画である[[弾丸列車]]計画を推し進めることになるが、孫弟子にして子息である[[島秀雄]]が設計した高速蒸気機関車もまた米国流の設計手法ではなくドイツ流、それも[[1920年代]]の設計手法での設計に過ぎない。「パシナをちょっと良くすればいい」と述懐していたが、設計手法が異なるので意図が不明である。ただし、弾丸列車計画の資料は断片的にしか残っておらず、パシナをモデルとした設計案が存在した可能性も否定できない。
 
1934年(昭和9年)[[11月1日]]から運転を開始した「あじあ」は[[鉄道の最高速度|最高速度]]130 km/h<ref>運転開始直前に南満州鉄道が発行したパンフレットは、機関車の最高許容速度を130 km/hとしつつ、列車自体は最高時速110 kmと書いている。南満州鉄道株式会社『流線型特別急行列車「あじあ」』(1934年発行。2013年復刻、『新幹線トレジャー・ボックス』所収)</ref>、大連 - 新京間701 kmを所要8時間30分で結び、[[表定速度]]は82.5 kmに達した。これは、当時日本の[[鉄道省]]で最速の特急列車だった「[[つばめ (列車)|燕]]」(最高速度95 km/h、表定速度69.55 km/h)を大きく凌ぎ、戦前の日本最速である[[阪和電気鉄道]](現・JR西日本[[阪和線]])の[[超特急]](表定速度81.6 km/h)に匹敵する蒸気機関車牽引による高速運転である。ただし満鉄の[[軌道 (鉄道)|軌道]]が標準軌の平坦線という好条件を考慮すると、速度的には当時の鉄道先進国における標準並でしかなかったことも事実である。
 
「あじあ」の名称は、30,066通の[[懸賞]]応募の中から決定されたもので<ref>『流線型特別急行列車「あじあ」』</ref>、編成最後尾の[[展望車]]後部には「あじあ」の列車名と、「亜細亜(アジア)」の「亜」を図案化し、太陽の光をモチーフにしたシンボルマーク<ref name=":0">{{Cite book|title=『南満州鉄道 「あじあ」と客・貨車のすべて』|date=|year=1970年|publisher=誠文堂新光社|author=市原善積 等}}</ref>が掲げられていた。
 
[[1935年]](昭和10年)[[9月1日]]からは運転区間が大連 - [[ハルビン市|ハルビン]]間に延長され、大連 - ハルビン間943.3 kmを1213時間30分で走破している。当初新京 - ハルビン間は軌道が脆弱だっため、[[活荷重|軸重]]の大きい「パシナ」形機関車は使用できず「パシイ」形機関車牽引していが、[[高速化 (鉄道)|軌道が改良された]]後も機関車は「パシロ」が用いられ、最後まで新京 - ハルビン間に「パシナ」形は投入されなかった。
 
[[1936年]](昭和11年)10月の改正では大連 - ハルビン間の所要時間が1時間短縮され、12時間30分となった。
[[1941年]](昭和16年)7月、[[関東軍特種演習]]のため「あじあ」の運転を一時休止。12月に運転を再開するが、[[1943年]](昭和18年)[[2月28日]]、[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])激化に伴い運転を休止。同年4月には全線で最高速度を引き下げて輸送力を増強する方向のダイヤ改正が行われ、以後「あじあ」の運転が再開されることは無かった。
 
[[1941年]](昭和16年)7月、[[関東軍特種演習]]のため「あじあ」の運転を一時休止。12月に大連 - 新京間で運転を再開し、その後ハルビンへの直通が復活するが、[[1943年]](昭和18年)[[2月28日]]、[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])激化に伴い運転を休止した。同年4月には全線で最高速度を引き下げて輸送力を増強する方向のダイヤ改正が行われ、以後「あじあ」の運転が再開されることは無かった。
第二次世界大戦後の中華人民共和国では、和平号としてあじあ号の編成が利用された。
 
戦後、一部の客車は[[ソ連対日参戦|満洲国内に侵攻]]してきた[[ソビエト連邦]]に[[接収]]されたものの、[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]の満州撤退後は一部の機関車や客車を[[中華人民共和国]]が引き継ぎ、「パシロ」形は「勝利6型」、「パシナ」形は「勝利7型」に改称され、保管されていた現存の勝利7型2両(751、757)が一般公開されている<ref>{{cite web |title=“幻の超特急”満鉄「あじあ」号の機関車 瀋陽の博物館で保存 |publisher=[[フジサンケイビジネスアイ]] |url=https://www.sankeibiz.jp/compliance/news/171013/cpd1710132236014-n1.htm|date=2017-10-13|accessdate=2019-10-20}}</ref><ref>{{cite web |title=満鉄の超特急「あじあ号」、一般公開 中国・瀋陽、現存の2両 |publisher=[[朝日新聞]] |url=https://www.asahi.com/articles/DA3S14022509.html|date=2019-05-20|accessdate=2019-10-20}}</ref>。
 
展望車「あじあ」用テンイ8形客車は戦後、北京 - 満洲里間の「和平として利に使用された。

展望車のテンイ8形は最終的に公務車 GW95000となったが、 黒河車両段に放置され荒廃していた。しかし、近年、修復され哈爾濱鉄路局紅色教育基地に展示されている。
 
二等座席車のロ8形は近年になって杭州で荒廃した姿が発見され、修復後に固鎮県蚌埠市の津浦鉄路遺址公園で展示されているが、 あじあ号時代でもなく、和平号時代でもない、杜撰な考証での復元のようで、ファンの評判はよくない。
38 ⟶ 40行目:
「[[南満州鉄道の車両#急行旅客用|南満州鉄道の車両]]」も参照
 
主力牽引機は流線形蒸気機関車である[[パシナ形]]で、その全長は25.675 m(連結面間距離、[[炭水車]]を含む)、車体幅3.362 m、高さは4.8 mに及び、[[駆動輪|動輪]]直径は2.0 m、運転整備重量203.31 t([[軸重]]23.94 t)の大型機関車である。「パシナ」の名は[[南満州鉄道の車両#名称および記号|満鉄の車両命名規則]]に由来しており、[[車軸配置]][[車輪配置 4-6-2|2C1]]のアメリカ式呼称「'''パシ'''フィック」の7('''ナ'''ナ)番目の機関車を意味する。流線型のカバーは鋼材の骨組みを機関車本体を覆うように組み、骨組みに鋼板を張っている。当初、パシナ形の基本設計が実施された時点では流線形の採用は考慮されておらず、流線形覆いのない状態で軸重上限一杯を使い切る設計となっていた。このため、設計終盤での流線形採用決定にあたっては、各部の軽量化のための設計変更に様々な苦労があったと伝えられており、特にパシフィック形の軸配置で重量配分上、軸重上限ぎりぎりであった運転台直下の1軸[[従輪|従台車]]については、上限超過を避けるために2軸台車として[[車輪配置 4-6-4|ハドソン形(2C2)]]の軸配置も検討される状況であったが、これは従台車直上に置かれていた[[自動給炭機]](メカニカル・ストーカー)用の動力装置一式を炭水車に移設することでかろうじて回避している。
 
[[炭水車]](テンダー)は軸受にティムケン社の[[転がり軸受#ころ軸受|ローラーベアリング]]を採用した2軸台車2個を履き、石炭12 t・水37 tを積載可能。空気抵抗低減のため、「あじあ」専用客車と同じ断面形状のカバーで覆われている。カバーは給水及び給炭を簡単に行うため、一部が軽合金製の開閉式とされた。また、機関車後部で発生する圧力抵抗を軽減するため、炭水車後尾部には空気の流れを整えるための小さな庇が設けられている<ref name=":2" />
 
[[線路 (鉄道)|線路]]上の[[試運転|性能試験]]では135 km/hで[[振動]]が激しくなりそこで断念、台上試験では145 km/hまで記録するもまたもや振動で断念、しかし後年誇張された伝説が流布される。<!--なお「160 km/h」が最高であったという資料もあるが、これは機関車の設計速度。-->以前は川崎重工の公式サイトにパシナの紹介ページがあり最高時速120km/h(時には170km/hを記録)と記述されていた<ref>https://web.archive.org/web/20020530122555/http://www.khi.co.jp/sharyo/since_final/since_1934.html</ref>。当時の鉄道省では最大速度150キロと認識されていたようである<ref>JREA2002-12 28826</ref>。1934年(昭和9年)に満鉄沙河口工場で3両、川崎車輛で8両が製作された。同年8月に試運転を完了、大連機関区に7両、新京機関区に4両が配置され、大連 - 新京間に投入された。なお、翌年増備された1両(981 - パシナ12)は、他の11両(970 - 980→パシナ1 - 11)とはかなり異なる外観であった。また、パシナ形は[[運用 (鉄道)|運用]]の間合いで急行「[[つばめ_(列車)#南満州鉄道「はと」|はと]]」等の牽引にも用いられていた。パシナ形のデザインは、流線形電気機関車「[[ペンシルバニア鉄道GG1形電気機関車]]」や[[たばこ]]「[[ピース (たばこ)|ピース]]」などのデザインを手掛けたことで知られる[[インダストリアルデザイナー]]の[[レイモンド・ローウィ]]が絶賛している<ref>{{Cite book|和書
|author = 永田龍三郎
|year = 2006
126 ⟶ 128行目:
 
== 運行 ==
当初の案では大連 - 新京間の途中停車駅は[[瀋陽駅|奉天駅]]のみであったが、大連 - 奉天間396.6 kmもの長距離を無停車で走行するには炭水車に搭載可能な水の量や[[蒸気機関車の構成要素|灰箱]](燃焼後の[[フライアッシュ|石炭灰]]を収納する容器)の容量が不足することが明らかになり、実際の運行では[[大石橋駅]]と[[四平駅|四平街駅]]が途中停車駅に追加された。また、パシナ形機関車は大連機関区と新京機関区に分散配置され、大連機関区配置の「パシナ」は大連 - 奉天間、新京機関区配置の「パシナ」は奉天 - 新京間を牽引し、奉天駅停車中に機関車の付け替えを行っていた(後に奉天駅での機関車付け替えは廃止され、全区間を同一の「パシナ」が牽引する方式となった)。1934年(昭和9年)11月、「あじあ」運行開始時のダイヤは以下の通りである。
{| class="wikitable"
|+「あじあ」運行開始時のダイヤ
1934年(昭和9年)11月改正
!駅名
!
!新京行き
!
!大連行き
|-
| style="text-align:center" |大連
| style="text-align:center" |発
| style="text-align:center" |09:00
| style="text-align:center" |着
| style="text-align:center" |18:30
|-
| rowspan="2" style="text-align:center" |大石橋
|style="text-align:center" |着
|style="text-align:center" |11:54
|style="text-align:center" |発
|style="text-align:center" |15:37
|-
|style="text-align:center" |発
|style="text-align:center" |11:59
|style="text-align:center" |着
|style="text-align:center" |15:32
|-
| rowspan="2" style="text-align:center" |奉天
|style="text-align:center" |着
|style="text-align:center" |13:47
|style="text-align:center" |発
|style="text-align:center" |13:43
|-
|style="text-align:center" |発
|style="text-align:center" |13:52
|style="text-align:center" |着
|style="text-align:center" |13:38
|-
| rowspan="2" style="text-align:center" |四平街
|style="text-align:center" |着
|style="text-align:center" |16:02
|style="text-align:center" |発
|style="text-align:center" |11:30
|-
|style="text-align:center" |発
|style="text-align:center" |16:07
|style="text-align:center" |着
|style="text-align:center" |11:25
|-
|style="text-align:center" |新京
|style="text-align:center" |着
|style="text-align:center" |17:30
|style="text-align:center" |発
|style="text-align:center" |10:00
|}
1939年(昭和14年)11月からは停車駅に[[鞍山駅]]が追加された。
 
ジャパン・ツーリスト・ビューロー発行の『満州支那汽車時間表』昭和15年8月号に掲載されている「あじあ」の停車駅は以下の通り。
 
大連駅 - ([[普蘭店駅]]) - [[大石橋駅]] - [[鞍山駅]] - [[瀋陽駅|奉天駅]] - [[四平駅|四平街駅]] - 新京駅 - [[徳恵駅]] - [[双城堡駅]] - ハルビン駅(1939年(昭和14年)11月1日改正ダイヤ)※普蘭店駅は関東州の北端にあることから、車内の荷物検査を行う税関吏を乗車させるために大連行き列車のみ停車した。普蘭店駅での旅客取扱は行われない。
 
ハルビン行きの列車番号は11、大連行きの列車番号は12である。