「徳川秀忠」の版間の差分

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[[寛永]]3年([[1626年]])10月25日から30日まで後水尾天皇の[[二条城]]への行幸の際には秀忠と家光が上洛、拝謁した。寛永6年([[1629年]])の[[紫衣事件]]では朝廷・寺社統制の徹底を示し、寛永7年(1630年)9月12日には孫の女一宮が天皇に即位し([[明正天皇]])、秀忠は天皇の[[外戚]]となった。
 
寛永8年([[1631年]])には忠長の領地を召し上げて蟄居を命じるが、このころから体調を崩し、[[寛永]]9年[[1月24日_(旧暦)|1月24日]]([[1632年]][[3月14日]])に[[薨去]]。享年54(52({{没年齢2|15791581|58|231|1632|38|1431}})。
 
家光に対して{{Quotation|''「当家夜をありつの日浅く、今まで創建せし綱紀政令、いまだ全備せしにあらざれば、近年のうちにそれぞれ改修せんと思ひしが、今は不幸にして其の事も遂げずなりぬ、我なからむ後に、御身いささか憚る所なく改正し給へば、これぞ我が志を継ぐとも申すべき孝道なれ」(『徳川実紀』)''}}との遺言を残している。