「ドイツ国会議事堂放火事件」の版間の差分

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[[画像:MarinusvanderLubbe4.jpg|200px|thumb|1933年3月3日、警察官とルッベ(中央、うな垂れている人物)]]
ゲーリングはプロイセン州警察の公式発表に介入し、犯人が用意した放火材料「100[[ポンド (質量)|ポンド]]」(約47kg)47キログラム)を「1,000ポンド」(約470kg)470キログラム)と訂正させた(1プロイセンポンド1プロイセンポンドは約470グラム470グラム)。担当官が、多すぎて一人では運ぶのは不可能だ、と抗議すると「何事も不可能では無い!だいたいなぜ単独犯行と書くのだ?10人も20人もいたかもしれないじゃないか! きみには何が起ころうとしているのかわからないのか? この事件はコミュニスト蜂起の合図なんだぞ!」と叫び、「2人の共産党議員」が共犯だと書き加えた。担当官は政治的文書であることを理由にゲーリングの署名を求め、ゲーリングはしぶしぶ「G」とだけサインした。ナチス党機関紙[[フェルキッシャー・ベオバハター]]紙の一面もこの『陰謀』の記事に差し替えられ、ヒトラーとゲッベルスが編集に立ち会った<ref>136-137p</ref>。
 
その日のうちにプロイセン州警察は共産党議員や公務員の逮捕命令を出した。共産党系の新聞はすべて発行禁止となった。その後、共産党議員団長である{{仮リンク|エルンスト・トルクラー|de|Ernst Torgler}}や後に[[コミンテルン]]書記長を務める[[ゲオルギ・ディミトロフ]]、ディミトロフと同じブルガリア人の共産主義者である{{仮リンク|ブラゴイ・ポポフ|bg|Благой Попов}}と{{仮リンク|ヴァシリ・テネフ|bg|Васил Танев}}の4名が共犯として逮捕された。
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[[ファイル:-VO zum Schutz von Volk und Staat 1933 2.JPG|200px|right|thumb|大統領令]]
{{seealso|1933年3月ドイツ国会選挙}}
2月28日、ヒトラーは閣議にコミュニストと「法的考慮に左右されず決着をつける」ためとして<ref>トーランド、137p</ref>、 「[[ドイツ国民と国家を保護するための大統領令]]」と「ドイツ国民への裏切りと反逆的策動に対する大統領令 ({{lang|de|Verordnung des Reichspräsidenten gegen Verrat am Deutschen Volke und hochverräterische Umtriebe}}」の二つの緊急大統領令の発布を提議した。パーペンが「[[バイエルン州]]で反発を受けるかもしれない」と意見を述べたのみで、ほとんど修正される事無く閣議決定された。[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]][[ドイツ国大統領|大統領]]も黙って承認し、国家防衛緊急令は即日、反逆防止緊急令は翌日公布された。これにより言論の自由や所有権は著しく制限され、政府は連邦各州の全権を掌握できるようになった。
 
3月1日、ゲーリングはラジオ放送で「共産主義を我々の民族から抹殺することが、私の最も重要な責務である」と述べ、「(国家社会主義)革命の敵に対しては、テロルの使用が不可欠である」と政府による[[白色テロ]]を宣言した。共産主義者は次々と警察によって[[予防拘禁]]され、2日後には[[無政府主義]]者、[[社会民主主義]]者も対象に加えられた<ref>南、民族共同体と法(10)、6p</ref>。