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東逍寺 (会話 | 投稿記録)
  基本的な内容が本末転倒しているので訂正。
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{{出典の明記|date=2015年2月}}
'''諒闇'''(りょうあん)とは、儒教の関連文句で、「礼記」にあるように父母が亡くなった後に「喪を行う部屋や建物」という意味で、転じて「喪に服す」という意味として古代中国では使われることが多い。事実、五世紀を語る『宋書』「倭国伝」には「奄に父兄を喪い、垂成の功をして一簣を獲ざらしむ。居しく諒闇にあり兵甲を動かさず(奄喪父兄、使垂成之功、不獲一簣。居在諒闇、不動兵甲礼記)」と諒闇という文句がでてくる。 「礼記」では「喪は三年」とあるようにかなり長い期間、身を慎み親に孝を尽くすとある。
'''諒闇'''(りょうあん)とは、[[天皇]]が、その父母の崩御にあたり[[喪]]に服する期間。ろうあんとも読む。また、'''諒陰'''・'''亮陰'''と書いて「りょういん」とも読ませる。大喪の期間は1年間だが、後に[[仁明天皇]]により喪服を着る期間を13日間として、1年間は[[心喪]]に服せばよいとされた。
 
'''諒闇'''(りょうあん) この儒教「礼記」を模範して、日本で、[[天皇]]、その父母の崩御にあたり[[喪]]に服する期間。ろうあんとも読む。また、'''陰'''・'''亮陰'''書いて「りょいん」とも読ませるようになったそして、日本の天皇の大喪の期間は1年間だが、後に[[仁明天皇]]により喪服を着る期間を13日間として、1年間は[[心喪]]に服せばよいとされた。
== 解説 ==
天皇・[[太皇太后]]・[[皇太后]]の崩御にあたり喪に服する期間。諒闇服と呼ばれる[[喪服]]を着用する。現在、[[天皇]]が服喪期間内に公務で外出する必要があるときは、[[官報]]の皇室事項欄に除喪の旨が公表される。
 
== 解説 ==
 [[儒教]]では『[[礼記]]』における[[父]]の[[死]]の3年、[[母]]の死の三年の[[喪|服喪]]の期間を言うために、実は、現在の[[日本]]の[[天皇]]の[[即位の礼]]が先代天皇の[[数え年]]で崩御後3年目に行われるのも、この儒教諒闇礼記」の観念によっている(ただし第125代天皇[[上皇明仁]]の即位の礼は[[昭和天皇]]崩御の翌年に行われた)。「[[論語]]」憲問篇によれば、[[殷]]の頃は君主が亡くなると新しい君主は「諒陰三年言わず」とあり、言葉を発することすら慎んだので万事を宰相が決裁していたとある。
 
日本においては、[[古代]][[律令法]]の[[喪葬令]]や[[儀制令]]に天皇の服喪規定があるものの、3日間と短く、実際にはより長期の期間行われている。記録上確認できるのは、『[[続日本紀]]』に記された[[聖武天皇|聖武上皇]]の母[[藤原宮子]]の死去の時(母親の事例)と同じく[[桓武天皇]]の父[[光仁天皇|光仁上皇]]の崩御の時(父親の事例)に宮中行事が中止されたことが記されている。