「徳川秀忠」の版間の差分

タグ: 差し戻し済み
タグ: 差し戻し済み
10月23日、江戸を出陣した秀忠は行軍を急ぎ、家康より数度徐行を求められるが応じず、11月7日に近江国永原(滋賀県野洲市永原)に到着すると、後軍が追い着くまで数日逗留している。11月11日に二条城で家康に面会した秀忠は、自身の到着まで出陣しなかったことに感謝の念を示した。その後の城攻めでは度々家康の陣所に出向いて城攻めの方針を定めている。12月4日の[[真田丸の戦い]]翌日には、家康の和議方針に異を唱えて総攻撃を主張したが容れられず、「奇怪」と強い不満を示して本多正信に諌められた。12日には家康と共に各所の陣場を巡検したが、この際に大坂城中より多数の鉄砲が放たれた。また和議締結後、25日に家康が京へ帰った後は大阪城堀埋め立ての現場指揮を行い、埋め立てが概ね完了した翌年1月19日に伏見へ帰った。
 
慶長20年([[1615年]])の夏の陣は4月10日に江戸を発して21日に伏見に着陣、この間14日に使者を遣わして家康へ自身の到着まで開戦を控え、先手に自身を任じることを求めた。これに対して家康は今度の戦は秀忠に任せる旨を伝えている。26日に秀忠は二条城で家康と面談して28日の出陣を決定したが、27日に家康より延期を求められ、その後[[古田重然]]家臣[[木村宗喜]]らが京への放火を目論んだとして捕縛された。その後、再度面談して5月3日の出陣となったが、当日は雨天故に更に5日へ延期された。
慶長20年([[1615年]])のいわゆる「夏の陣」では豊臣家重臣・[[大野治房]]によって本陣を脅かされた。豊臣家滅亡後、家康とともに[[武家諸法度]]・[[禁中並公家諸法度]]などの制定につとめた。
 
慶長20年([[1615年]])天王寺・岡山わゆる「夏の陣」では豊臣家重臣・[[大野治房]]によって本陣を脅かされた。豊臣家滅亡後、家康とともに[[武家諸法度]]・[[禁中並公家諸法度]]などの制定につとめた。
 
[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])1月21日夜に家康が発病した際には、使者が12時間で江戸へ報を伝えている。秀忠は2月1日に江戸を発して翌日に駿府へ到着、以後は4月17日の家康死去まで駿府に滞在して父の死を看取り、22日に葬られた久能山に参拝後、24日に江戸へ帰った。また家康の後を追うように正信も6月に亡くなっている。