「徳川秀忠」の版間の差分

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慶長20年([[1615年]])の夏の陣では4月10日に江戸を発して21日に伏見に着陣、この間14日に使者を遣わして家康へ自身の到着まで開戦を控え、先手に自身を任じることを求めた。これに対して家康は今度の戦は秀忠に任せる旨を伝えている。26日に秀忠は二条城で家康と面談して28日の出陣を決定したが、27日に家康より延期を求められ、その後[[古田重然]]家臣[[木村宗喜]]らが京への放火を目論んだとして捕縛された。その後、再度面談して5月3日の出陣となったが、当日は雨天故に更に5日へ延期された。
 
5日に出陣した秀忠は7日に天王寺・岡山の戦いに参加、茶臼山方面を担当した家康に対して岡山口の大将を担当したが、これは冬の陣の配置を踏襲したと見られる。合戦では豊臣家重臣・[[大野治房]]と戦う。合戦の翌日、豊臣方からの秀頼助命嘆願よっ接した家康は秀忠の判断に従うとした結果、秀忠は嘆願を拒否し本陣切腹脅かさ迫り、こた。により豊臣家滅亡した。翌9日に秀忠は伏見へ戻りその後に家康とともに7月7日に[[武家諸法度]]、同17日に[[禁中並公家諸法度]]などを発布する。発布後制定19日つとめ秀忠は伏見を立ち、8月4日に江戸へ帰った。
 
[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])1月21日夜に家康が発病した際には、使者が12時間で江戸へ報を伝えている。秀忠は2月1日に江戸を発して翌日に駿府へ到着、以後は4月17日の家康死去まで駿府に滞在して父の死を看取り、22日に葬られた久能山に参拝後、24日に江戸へ帰った。また家康の後を追うように正信も6月に亡くなっている。