「ジョージ・アダムス・リーランド」の版間の差分

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リーランドは1878年(明治11年)9月6日に来日するとまず各地の学校を視察し、日本の学校体操は軍隊式の操錬の影響が強いと指摘した。同年10月には体操伝習所の開設が決裁され、初代主幹に[[伊沢修二]]が任命される。教授内容については当時アマースト大学で行われていた2種類の体操、器械を使った[[ドイツ体操]]いわゆる「重体操」と、[[ダイオ・ルイス]]が1860年に発表した女性・少年向けの「軽体操」のうち、日本の学校には軽体操が適すると判断した。翌年には軽体操で用いられる唖鈴([[鉄アレイ]])・球竿・棍棒・木環のほか、[[クロッケー]]・[[クリケット]]・[[ベースボール]]用具1式、握力器・胸囲巻尺・身長測器なども準備された。[[1879年]](明治12年)4月7日、体操伝習所に第1期給費生25名が入学。そのうちの21名が2年後の1881年(明治14年)7月24日に卒業した。主に財政上の理由で契約が更新されなかったため、リーランドは同年7月31日付けで離職。日本を後にした。
 
その後の体操伝習所は[[1886年]](明治19年)4月に廃止され、[[高等師範学校]]体操専修科に引き継がれた。軽体操はリーランドの通訳を努め自ら体操家となった[[坪井玄道]]によりその理論が構築され、「[[兵式体操]]」に対して「[[普通体操]]」と呼ばれるようになる。普通体操は19901900年頃の[[スウェーデン体操]]の登場まで、学校体育の主たる形式としての地位を保った。
 
離日後のリーランドはヨーロッパで咽喉学、耳学の研究に専念した。1882年10月帰国。翌年のボストン[[YMCA]]体育館の医務責任者から医学の道を着実に進み、1912年米国咽喉学会会長就任。1914年ダートマス医学校咽喉科教授退任名誉教授となる。1919年日本政府から勲四等章を受章。1924年没。
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