「ジョージ・アダムス・リーランド」の版間の差分

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その後の体操伝習所は[[1886年]](明治19年)4月に廃止され、[[高等師範学校]]体操専修科に引き継がれた。軽体操はリーランドの通訳を努め自ら体操家となった[[坪井玄道]]によりその理論が構築され、「[[兵式体操]]」に対して「[[普通体操]]」と呼ばれるようになる。普通体操は1900年頃の[[スウェーデン体操]]の登場まで、学校体育の主たる形式としての地位を保った。
 
離日後のリーランドはヨーロッパで咽喉学、耳学の研究に専念した。1882年10月帰国。翌年のボストン[[YMCA]]体育館の医務責任者から医学の道を着実に進み、1912年米国咽喉学会会長就任。1914年ダートマス医学校咽喉科教授退任名誉教授となる。1919年日本政府から勲四等章を受章。1924年没。
 
 
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