「徳川秀忠」の版間の差分

タグ: 差し戻し済み
タグ: 差し戻し済み
== 戦績 ==
=== 関ヶ原の戦い ===
秀忠は[[関ヶ原の戦い]]が[[初陣]]であった。彼は3万8,000人の大軍を率いながら、わずか2,000人が籠城する[[信濃国|信州]][[上田城]]を攻め、[[真田昌幸]]の前に大敗を喫したと言われている([[上田合戦#第二次上田合戦|上田合戦]])。このときの惨敗ぶりを、「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」(『[[烈祖成蹟]]』)と記されている。この時の秀忠隊は、当時の慣例により作戦対象の[[信濃国|信濃]]と[[会津]]に隣接する封地を持つ徳川譜代で構成していた<ref group="注釈">ただし、[[相模国|相模]]に所領を持つ大久保忠隣・本多正信は秀忠の補佐として、秀忠の旗下にあった。</ref>。ただし同時代史料には大規模な戦闘や大敗の記述は無く、刈田を起因とする小競り合いが家譜類に記されているのみである。
 
秀忠が上田城攻囲に時間をかけたこと(および大敗したとされること)について、「当初より[[美濃国|美濃]]方面に向かっていた秀忠軍に対して、真田が巧妙に挑発し、それに乗せられた結果として秀忠は関ヶ原の会戦に間に合わなかった」「大局への影響の少ない上田城にこだわった秀忠は器量不足だった」「武断派の[[榊原康政]]・[[大久保忠隣]]が策士の[[本多正信]]を押し切って秀忠を上田城攻撃に駆り立てた」といった図式が小説等で採用されることがある<ref group="注釈">[[司馬遼太郎]] 『[[関ヶ原 (小説)|関ヶ原]]』 (1966年)など。</ref>。
しかし、『浅野家文書』によると、秀忠に同行した[[浅野長政]]に宛てて「中納言、信州口へ相働かせ侯間、そこもと御大儀侯へども御出陣侯て、諸事御異見頼入侯」とあることから、家康の当初の命令は信州平定であり、秀忠はそれに従っていたにすぎない。『真田家文書』では[[真田信之|真田信幸]]に対して秀忠は8月23日付の書状で昌幸の籠もる上田城を攻略する予定であることを伝え、[[小県郡]]に集結するように命じている。秀忠は[[小山城|小山]]を出陣してから緩やかに行軍し、上田攻略の前線基地となる[[小諸城]]には9月2日に着陣した<ref name="真田昌幸p209">{{Cite book|和書|author=柴辻俊六|authorlink=柴辻俊六|series=人物叢書|title=真田昌幸|publisher=吉川弘文館|year=1996|page=209}}</ref>。
 
一方、[[岐阜城の戦い|岐阜城陥落]]が早かったことから、[[江戸]]の家康は戦略を急遽変更し、秀忠軍に上洛を命じる使者を送り、自身も[[9月1日 (旧暦)|9月1日]]に出陣し[[東海道]]経由で美濃の前線に向かった。しかし秀忠への使者の行程が豪雨による川の氾濫のため大幅に遅れ、秀忠が実際に上洛命令を受けたのは8日であった(森忠政宛秀忠書状<ref>黒田基樹『「豊臣大名」真田一族』洋泉社、2016年</ref>)。秀忠は急いで美濃に向かうが、当時の道幅の狭い隘路が続く[[中山道]]は大軍の行軍には適さない上に、その後も川の氾濫で人馬を渡すことができないなど悪条件が重なったとされる。そもそも上記の悪天候がなくても、[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]の関ヶ原開戦に間に合うはずもなかった。
 
家康は秀忠が間に合わないと察するや、徳川陣営において秀忠を待つか開戦すべきかを協議した。[[本多忠勝]]は「秀忠軍を待つべし」と主張し、[[井伊直政]]は「即時決戦」を主張した。家康は直政の意見を容れて即時決戦することにした。秀忠は、[[木曽地域|木曽]]の[[馬籠宿|馬籠]]に着いた17日に戦勝報告を受けた。
これを知った家康は激怒し、秀忠に軍勢を休ませて徐行して進軍するように命じている。『当代記』では、11月1日に秀忠が[[岡崎宿|岡崎]]に着いたとき、「揃人数、急度上洛可有儀を、路次中急給故、供奉輩不相揃、軽々敷上給事、不可然」と叱責する使者を出したとまで言われている。ところが秀忠は家康の命令を無視して、11月2日には[[名古屋宿|名古屋]]、5日には[[彦根城|佐和山]]にまで到着するという強行軍を続けた。このため家康は「大軍数里の行程然るべからざる由、甚だ御腹立」であったと『[[駿府記]]』には記されている。
 
慶長20年([[1615年]])の大坂夏の陣では先陣は秀忠が務め、5月7日の天王寺・岡山の戦いでは中央の天王寺口を家康、右翼の岡山口を秀忠が担当した。ただし前日の宿営地である平野からは、天王寺口へは迂回する必要があり、岡山口の方が近く街道沿いにある。本合戦では秀忠の采配を称賛する記述が徳川家の史料で確認でき、秀忠の軍功として権威付けが行われた。
慶長20年([[1615年]])の大坂夏の陣の直前に行われた軍儀式では、家康、秀忠の双方が先陣を主張した。家康にとっては集大成であり、秀忠にとっては名誉挽回の好機であった。結局、秀忠が頑として譲らなかったため先陣は秀忠が務めたが、総攻撃が開始された5月7日、最激戦となった天王寺口で先陣を務めていたのは家康であり、名誉回復を果たすことはできなかった。
 
{{Quotation|
:'''『駿府記』'''
::未刻迄挑戦、関東勢少敗北之処、幕府自令執麾令進給、御圉人取留之、雖然払左右勇給、依之諸軍勇進、
::(午後二時頃まで戦われ、関東勢(幕府軍)が少し負けた所、幕府(秀忠)自身が指揮をするために前進したので、馬取がこれを押し留めたが、これを振り払って左右の者を鼓舞した、これにより諸軍は勇気付けられ前進した)
:'''5月14日付鳳来寺宛鈴木重辰書状'''
::将軍様御仕合無比類御事候、
::(将軍様(秀忠)の活躍は比類なきものである)
}}
 
== 人物 ==