「光明念佛身語聖宗」の版間の差分

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昭和2年([[1927年]])、覚恵は寺号をもって八坂家に入籍した。瀧光徳寺は後に中山身語正宗の大本山となった。
 
その一方で、覚法は[[真宗大谷派]]・明光寺の下寺として昭和5年(1930年)に光明寺を建立した。昭和10年(1935年)には古四国八十八ヵ所霊場を開く。昭和15年(1940年)に光明寺を本福寺と改称、のちに高野山真言宗の別格本山となった。戦後、昭和25(1950年)年に本堂(現・大師堂)を建立。
 
昭和31年(1956年)には[[真言宗泉涌寺派]]の九州総本山となる。昭和42年(1967年)に覚法が逝去、その法燈を覚法の長男・覚英が継承した。昭和50年(1975年)に泉涌寺派を離脱・独立し現在の光明念佛身語聖宗を設立。