「レオポルト5世 (オーストリア公)」の版間の差分

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この十字軍参加の折、敵の返り血を浴びて全身赤く染まったが、ベルトの部分だけは白く残ったという伝説が、上から赤・白・赤の[[オーストリアの国旗]]のデザインになったと言われているが、実際にこのデザインが紋章として用いられるようになったのは、レオポルト5世の孫[[フリードリヒ2世 (オーストリア公)|フリードリヒ2世]]からである<ref name=Z100 />。
 
この経緯から、第3十字軍が終わった後にイングランド本国に帰還しようとしていたリチャード1世を逮捕し、その身柄を[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]]であった[[ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ6世]]に引き渡した。そして、莫大な身代金を受け取ることでリチャード1世を釈放している<ref name=Z102>ツェルナー、p. 102</ref>。
 
しかし[[サラーフッディーン]](サラディン)と並び「獅子心王」とまで称される英雄リチャード1世<ref>中世ドイツの詩人が君主に求めた徳は、勇敢さと気前良さ(物惜しみをしないこと)であるが、ドイツ中世盛期の詩人[[ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ]]は、[[1198年]]9月8日[[マインツ]]でドイツ王として戴冠したフィリップ・フォン・シュヴァーベンに向かって、王たる者は名声と尊敬をえるために「快く施しを」すべきと説き、その模範としてサラディンとリチャード獅子心王を挙げている。村尾喜夫訳注『ワルターの歌』(''Die Sprüche und der Leich Walthers von der Vogelweide '')三修社、1969年8月、16-19頁。</ref>を逮捕したことは、[[教皇|ローマ教皇]][[ケレスティヌス3世 (ローマ教皇)|ケレスティヌス3世]]の怒りを買うことになり、レオポルト5世は[[破門]]されてしまった<ref name=Z102 />。そして1194年、落馬事故が原因であっけなく死去した。