「池田輝政」の版間の差分

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吉田城主時代は{{Efn|この頃は羽柴吉田侍従と称された}}同時期に尾張に入部した[[豊臣秀次]]に付属させられたと見られており<ref name="岡田222"/>、そのため[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]に際しては国内守備の任務にあった秀次に近侍して吉田城に留まり東国警衛の任にあたっている。朝鮮出兵に関する任務としては、大船建造や兵糧米の[[名護屋城]]回送を命じられている<ref name="岡田223">{{Harvnb|岡田|p=223}}</ref>。また、[[伏見城]]普請や[[豊臣秀保]]の[[大和国|大和]][[多内城]]普請を務めた<ref name="阿部76"/>。
 
[[文禄]]3年([[1594年]])、秀吉の仲介によって、[[徳川家康]]の娘・[[督姫]]を娶る{{Sfn|村川|2000|p=112}}。輝政の正室・糸姫は利隆を出産した際、出血が止まらずそれがもとで病気になり実家に帰ったとされる(『池田家履歴略記』)。中川家とはその後も関係が良好で、関ヶ原の戦いの前に糸姫の弟の[[中川秀成]]は輝政の仲介で家康に忠誠を誓った<ref>{{Cite web|url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/kichosyo/nakagawake/kaidai93.html|title=九三 (慶長五年)八月十八日 中川秀成起請文写|accessdate=2019年1月1日|publisher=神戸大学附属図書館}}</ref>。
 
[[文禄]]4年([[1595年]])、関白・豊臣秀次の失脚時、秀次の妻妾の多くが殺害されたものの、輝政の妹・[[若政所]](秀次の正室)は例外的に助命されており、特別丁重に扱われている([[豊臣秀次#切腹事件|秀次事件]])。豊臣時代、輝政は豊臣一族に準じて遇されていた。