「梁女瑩」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[安定郡]][[烏氏県]]の人。初め、蠡吾侯劉志(のちの桓帝)と婚約した。[[本初]]元年(146年)、梁冀は[[質帝]]を毒殺した後、権勢保持のため桓帝を擁立した。[[建和 (漢)|建和]]元年([[147年]])、女瑩は皇后に立てられた。
 
当初、女瑩は桓帝の寵愛を一身に受けた。しかし女瑩は尊貴をたのんで驕慢であり、奢侈濫費を重ねた上、梁冀の専横が続いたため、桓帝は女瑩をも恐れはばかることになった。梁太后(順烈皇后)が崩御した後、桓帝は他の妃嬪を寵愛するようになった。女瑩は嫉妬し、妊娠した妃嬪をみな死に追いやった。結局、女瑩は桓帝の信頼も寵愛も失った。[[延熹]]2年([[159年]])、女瑩は憂憤のうちに崩じた。「懿献」と[[諡]]され、懿陵に葬られた。
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{{後漢の皇后}}
 
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[[Category:2世紀中国の女性]]
[[Category:後漢の皇后]]